時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

坂井希久子『江戸彩り見立て帖 朱に交われば』(文春文庫)

江戸時代の相性のよいカップルを表す言葉として、「東男に京女」 というのがありますが、本作はその逆。「東女に京男」 の物語です。 しかもヒロインは呉服の色見立てにかけては天才肌なのに、 堅物のお彩。その相手となるのが、京出身の呉服屋のボンボンで、 いつもはフニャフニャしながらも、いざとなったら鋭くて、 ちょっとだけ陰のある右近。 このキャラクター設定と組み合わせを、 嫌いな人なんていないのではないでしょうか。

しかも、 作中には江戸時代の色彩についての知識が盛りだくさんで楽しいで すし、作者が何を書いてもうまい坂井希久子さんとくれば、 面白くないわけはありません。 そして人気が出ないはずがありません。というか、 実際にシリーズの第一作目には重版がかかってます。 そんな完全無欠の作品に、 私ごときが感想を言う必要もない気がするので、 ここらへんでおしまいにしたいのですが、 とりあえずは書いていこうと思います。

いきなりですが、「いい小説」って何でしょう? この問いには、さまざまな答えがあると思います。 そんな多数の答えの中の一つにあるのが、「感情を直接的に表現しないで、読者にしっかり伝える」です。「うれしい」「悲しい」といった感情をそのまま書くのではなく、 人物の表情やしぐさ、台詞、 情景描写などで表すということですね。

たとえば、「今日は空が青いのに、僕にはそうは見えなかった。僕の目に映るのは、くすんだ黒い空だ」みたいに書いてあったとします。これ、決して「目ェ悪いんじゃないの?」とか「眼科行けよ」みたいな話ではありません。見えている情景で感情を表しているんですね。この「僕」 の気持ちは、おそらく「悲しい」とか「寂しい」とか、 ネガティブな感情のはずです。美しいはずの青い空が、 あまりいい色とはいえないものに置き換わっているのですから、「僕」が良好な感情を抱いているとは思えない。つまり、「くすんだ」「黒い」という言葉に似た感情をもっている、 と考えられるということです。こういった間接的な感情表現が、 いい小説では必ず行われています。

「お彩はん、ここはわてが。 あんさんは奥でお昼を食べてきなはれ」
「でも、番頭さんが」
「あの人の言うことは、聞かんでよろし」
 自分の店の番頭なのに、ずいぶんな言い様だ。(p.154)

これはお彩と右京の会話の場面です。最後の右京の台詞である「あの人の言うことは、聞かんでよろし」からは、 右京が明らかに怒っているであろうことが読み取れます。「怒っている」という直接的な感情表現がないのに、です。では、 なぜ「怒っている」とわかるかといえば、地の文で「ずいぶんな言い様」と書かれているのはもちろんですが、 これまでの右京との物言いとは違う、「よろし」 という命令形の言い切りを使っているからでしょう。 いかにも上方の人らしいはんなりとした口調の右京が、 いきなりキツい言い切り表現を使うのですから、「こりゃ怒ってるね」と思わざるを得ないのです。

さて、そんな間接的な感情表現でいちばん重要というか、 うまくできたらかっこいいことこの上ないのが、「好き」 という気持ちの表現です。 夏目漱石が言ったとか言わないとか言われている「月が綺麗ですね」をはじめとして、「好き」 の間接表現については、 古今東西の作家たちが取り組んできています。そして本作でも、 見事な「好き」の間接表現が行われているのです。

「いやもう。格好よろしいわ、お彩はん」
 まるで発作だ。お彩はぽかんと突っ立ったまま、 笑い続ける右近を見上げた。
「よぉ、兄ちゃん。江戸の女はいいだろう?」
 いつの間にか、周りに見物の輪ができていた。 上方の男と江戸の女が喧嘩をはじめたと、 物見高い連中が足を止めたのだ。
「いやだ!」
 今さらと知りながら、お彩は着物の袖で顔を隠す。その頭上から、 やけに晴れやかな声が降ってきた。
「へぇ、お蔭さんで。わて、もう江戸から離れられやしまへんわ」 (p.221)

これは路上で、 お彩が右京に啖呵を切ってしまったあとの場面です。「てめぇ」 呼ばわりしたお彩に、右京は「格好よろしいわ」と笑っています。 そして最後に、「わて、もう江戸から離れられやしまへんわ」 と言っています。この一連の部分が、「好き」の代替表現です。 右京の言う「離れられやしまへん」のは、書かれているとおりであれば江戸なのでしょうが、 きっと「江戸の女」のことも指しているのでしょう。 そうとしか読み取れません。そして「江戸の女」とはだれかといえば……ということです。このように断言できるのは、野次馬の「 江戸の女はいいだろう?」という呼びかけのおかげですね。 ここから、右京の言う「江戸」が広義で「江戸の女」 までを指すものだと理解できるのです。

いやぁ、この部分の書き方はすごいですよ。 この部分を読むだけでも、本作を買う価値があります。 しかもこの部分を、本作の終盤に持ってきているので、 続きが読みたくなる仕掛けにもなっています。そして、 こういう叙述をサラッとできるのが、 プロ中のプロの作家さんなんですよね。さすがは坂井さん、 お見事でした。


発売日:2022年5月10日