時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

進藤玄洋『鬼哭の剣』(ハヤカワ時代ミステリ文庫)

読み終わった瞬間、「惜しい!」と叫びました。本当に惜しいんです。あと一歩で傑作になりそうな予感がビンビンする作品ですから。

本作は、寛文9年(1669)にアイヌの惣乙名・シャクシャインが謀殺されたことから始まる、ミステリーであり、復讐劇であり、友情物語でもあります。主人公は二人。津軽藩藩主の嗣子・信重と、日本橋の商家「越前屋」の息子・充右衛門です。この二人が唯一無二の友人となることが、物語の歯車となり、悲劇のはじまりにもなるという、面白い要素がつまった物語です。

しかし、読み始めから少しだけ不安はありました。漫画『ゴールデンカムイ』が大人気のまま結末を迎えようとしている現在、アイヌについて書くのはトレンドといえますか、「下手なことを書くと、『ゴールデンカムイ』の読者からつっこみを受けるんじゃないか」とか、「アイヌはわりとデリケートなテーマだぞ」と、過保護な保護者のごとく心配になったのです。

「おい、お主、名をなんと申す」
 信重は、若旦那風の男に声を掛けた。
「これは、出羽守様でござりまするか。私は、越前屋充右衛門と申します」
「越前屋? 商人か」
「左様でございます」
「剣術は、どこで習った?」
「剣術でござりまするか? 私は商人でござりまする。そのようなものは……」
「なにをとぼけておる。其方の技、しかと見たぞ。俺と同じ一刀流だ。相手の起こりを見抜いたは、見事だった」
 『起こり』とは、相手が動こうとする直前の動作であった。
 男は、苦笑した。
「さすがは出羽守様。よく見抜かれましたな」
「俺と一緒に来い! 今日は飲もうぞ! お主と夜通し剣術談義をしたいものだ」(p.31)

藩主である父に疎まれている信重が、友となる充右衛門と出会った場面です。剣術が好きで、剣術で身を立てたいとまで思っている信重が、充右衛門が自分と同じ流派の剣術使いだと知り、無邪気によろこんでいます。とてもいい雰囲気です。前半までは、この二人が友情を深めていくところや、いくつかの事件の不穏さ、そして充右衛門と吉原の振袖新造・初音の関係など、グッとくる場面が多く、「これは期待できる」と思っていたのですが、後半に充右衛門が蝦夷地に渡ってからは、「こりゃアカン」となりました。

「ある者が私の顔が祖父に似ていると」
「ああ、似ておるとも。瓜二つだ。(後略)」
 その言葉に反応したかのように、チャシの外にいた者たちが一人、二人と中に入って来て、充右衛門を取り囲んだ。(p.292)

これは充右衛門が蝦夷地に渡り、アイヌの人々のもとへ行ったときの様子です。ネタバレを避けるためにくわしくは書きませんが、充右衛門が「そういう血筋」であり、「ある人」と瓜二つだったということは、顔のつくりや毛深さなどに特徴があったはずです。江戸の人々とは、かなり違う容貌だったはずです。

なのに江戸では、事実を知る伝兵衛以外は、彼のビジュアルについてだれも言及しません。かなり仲よくしていた信重だって、充右衛門の容姿については台詞はもちろんモノローグでも語っていません。充右衛門に思いを寄せる初音に、「若旦那の太い眉、わっちは好きでありんす」ぐらいのことを言わせてもいいのにねぇ。充右衛門の血筋の秘密は、伝兵衛や松前八兵衛の言葉からチラチラと「におわせ」はあるのですが、それでもビジュアルを度外視とは、北海道出身の私からすると「そりゃ反則でしょう」という気持ちです。

また、充右衛門が蝦夷地でどんなことをしていたのかは、ほとんど描かれていません。江戸に戻るまで、蝦夷地でアイヌたちとどのように暮らしていたのかが一切わからないのです。

 充右衛門は上空を見上げると、降り注ぐ雨粒を顔で受けた。容赦なく濡らし続ける雨を抗うこともなく、ただ全身で受け止めていた。

「天の神(カムイ)よ。地の神(カムイ)よ! 私(ク)に力を与え給え。(後略)」(p.331)

ネタバレ回避のために一部を略しましたが、蝦夷地からの帰還後、充右衛門はこれだけのアイヌ語を用いた祈りの言葉を捧げるほどになっています。

この言葉は、充右衛門の怒りや復讐の気持ちから生まれたものでしょう。そして最終的な行動に至るには、蝦夷地の厳しい自然環境と、アイヌとの生活で醸し出されたものが関わっていないはずはありません。ならばやはり、本作の世界観の一部を担う蝦夷地での様子を描くべきだったと思います。そういう世界観の欠如によって、おだやかだった充右衛門がいきなり豹変したかのようにも思えるのですから。

また、蝦夷地での充右衛門の詳細を書くかどうかは、本作を傑作にまで持ち上げるかどうかの試金石だった気がします。それが冒頭で書いた「惜しい!」ということです。そしてそれは、「ちゃんと取材して書こうよ」という嘆きでもあります。後半でアイヌの人々との生活を描き、世界観を深められれば、充右衛門のそれからの言動を、善悪を超えたところで、強い思いを込めて読み進めることができたんじゃないかなぁ、と。

小説にはストーリーやキャラ設定、世界観など、いろいろな要素を含む複合体です。その中でも、世界観がしっかりしていることは大きな魅力になります。どんなに荒唐無稽な設定であっても、世界観が十分に描かれていれば、読者はドボンとその中に浸かることができます。そして、提示された世界で抵抗なく漂い、さまざまな出来事や事件に出会うことができます。それどころか、読者が勝手にストーリーを補足して考えてくれるようにもなります。つまり、物語が作者からの一方的な押し付けではなく、読者の頭の中で増幅してくり広げられるようになるのです。

反対に世界観がないということは、水も溜まっていないところで浮け、そして漂えと読者に無理強いしているようなものです。水を飲ませて「これで酔っぱらえ」と言っているのと変わりません。無理です。せいぜい酔ったフリをした読者に、作者さんがぶん殴られるだけです。

当時のアイヌの生活を知ることは、かなり難しいでしょう。しかしそれを調べてこそ、プロの小説家といえるのであり、取材をもとに書かれてこそ、お金を払って読む価値のある小説といえると思うのです。ちなみに、充右衛門が訪れた蝦夷地のシベチャリは、現在の新ひだか町(の静内)です。そこにあるアイヌ民俗資料館では、作中当時とまではいかなくても、かなり古いアイヌの資料や知識が手に入るはずです。また、チャシの遺跡もあります。現地で調査しておけば、たとえ想像に頼る部分が多くなったとしても、多少の間違いなど気にならない、ちゃんとした世界観が描けるはずですから。

また、エンディングが信重中心ですっきりしすぎているのも、アイヌの側の世界観が省かれているせいではないかと思います。最後に読者(というか私)が気になるのは、シャクシャインの刀と、初音が身ごもった子の生い立ちでしょう。刀は充右衛門が持っていたはずなので、信重の手にあるのかもしれませんが、「それが子の手に渡っていた」ぐらいの展開を加えてもバチは当たらないだろうし、シャクシャインの呪いも収められることになるのではないでしょうか。……それとも、呪いって続いてるんですかね? まさかね。


発売日:2022年4月11日