時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

鳴神響一『おんな与力 花房英之介【四】』(双葉文庫)

これは女剣劇だな、と思いました。本作は亡くなった兄になりすましている主人公・志乃が、女剣術士となって敵をバッサリと倒していく物語ですので、まさに女剣劇です。また、志乃がときには芸者の花吉や、女剣芸者の清水雪緒、医者の夕庵に変身するというギミックも、昭和30年代に大ヒットした女剣劇ドラマ『琴姫七変化』によく似ています。

女剣劇の面白さといえば、「女性でありながら刀を振るう」とか、「女ながらも男より強い」といったことだと思います。身体面・体力面で劣る女性が、男性に勝つというジャイアントキリング感。本作もその点は同じですね。志乃は恐ろしく剣術に優れていますし、相手が男だろうが女だろうが熊だろうが斬ってしまいそうです。そういうところが、本作でも面白さになっています。

ですが、本作と女剣劇では、主人公のあり方に大きな違いがあります。女剣劇では、主人公が女であるということを固持します。そうでないと、醍醐味であるジャイアントキリング感が薄まってしまいますから。『琴姫七変化』でも、主人公・琴姫は、日常は女性として過ごし、何かあったときには男装などの姿で大活躍します。どんなにいろんな姿に変身しようとも、基本というか本体(?)はあくまで女であって、ほかはあくまで借りの姿です。

しかし本作では、志乃の本体は女の志乃ではなく、男としての英之介です。英之介となった志乃からは、本物の男性との身体的な差異も感じられません。月経の心配もしてなさそうで、男装でもなければ男のなりすましでもない、本物の男性のようです。そのためか第一章は、「主人公はじつは女である」ということを知らなければ、男性が主人公の物語として読めてしまいます。

「参るぞ」
 義三郎は大刀をすらりと抜いた。
 雪緒も同じく抜いて中段に構えた。
 義三郎は上段から中段に構え直した。
(中略)
「参るぞっ」
 叫び声をあげて雪緒は跳んだ。(p.196-197)

「死ねやーっ」
 義三郎は大音声とともに斬り込んできた。
 雪緒は身体を左にさばいた。
 風が震えた。
 わずかの間合いで義三郎の刃は雪緒の肩先で空を切った。
 姿勢を正しながら雪緒は振り返った。
「たぁーっ」
 雪緒は刀を義三郎の首もとに打ち込んだ。(p.199)

これは終盤で、雪緒(志乃)が戦っている場面です。ザッと読むと、雪緒が男性だったとしても問題ないような描写になっています。いや、もしかすると、雪緒が相手の攻撃を身かわしで防ぐことで、男性との体格差を示しているのかもしれませんが。攻撃を刀で受けると、鍔迫り合いなどで男性に力負けしてしまう可能性がありますし、男性よりも女性のほうが身軽で動きがすばやいですから。しかし、そういったことを斟酌しても、女性と男性の戦いとしての特色はあまりない気がします。

先ほども書いたように、本作の面白さは、女性が男性を倒していくという女剣劇的な部分にあると思います。男性よりも体力や筋力、体の大きさで劣る女性による、ジャイアントキリング感が醍醐味なはずです。しかし、雪緒(女性)と敵(男性)との間には身体差が感じられないため、男性同士の戦いであるかのように感じるのです。

なにせ、敵の男たちが雪緒をあまり舐めていないんですよね。刀を持って戦うことが、ほぼ男性に限られていた江戸時代には、目の前で女が刀を構えていたら、「チョロそう」とか「楽勝だな」と思うのが当たり前のような気がします。それに、女性は明らかに自分たちより体が小さいのですから、力で押せば勝てると思うのがふつうかな、と。義三郎なんて、上段からわざわざ中段に変えているということは、雪緒と真っ向勝負しようとしてるってことですもんね。いい人だな。現代の剣道でも、段審査で女性と対戦することになった男性は、身長差を活かそうと、上段で向かってくることは少なくないのに。

 自分の頬が火照るのを英之介は感じた。
 酒のせいではない。
 何度も感じた胸の奥のうずきをいま痛切に感じていた。
(この気持ちは……いったい……)
 英之介は激しくうろたえていた。
 身体が小さく震えている。
 身も心も根本から崩れ落ちてしまいそうな、そんな不安な気持ちだった。
 英之介は我が心を偽っていたことに気づいてしまった。
 自分は雄之進に惚れているのだ。
 そう。英之介としてではなく、志乃として……。
 本当は雄之進に抱きしめられたいと志乃の身体が求めているのだ。(p.139)

本作のあらすじや帯には、「(志乃が)乙女心をひた隠し」と書いてあります。本作でその「乙女心」にあたるのはこの部分でしょう。亡き兄の友人だった雄之進への、恋心を露わにしていますね。前述のとおり、本作では志乃の女性としての身体性についてはほとんど言及されていないのですが、ここでは「胸の奥のうずき」とか「身体が小さく震え」とか「身も心も根本から崩れ落ちてしまいそう」と、やたら身体的な感覚の叙述が続いています。

さらに、「本当は雄之進に抱きしめられたいと志乃の身体が求めているのだ」と、いきなり「体が求めちゃう」みたいな表現が出てきています。突然のフランス書院っぽさ。これが男性と交際したことのない女性の(しかも江戸時代の)乙女心といえるかどうか。うーん。ちょっと違う気がします。

 鏡のなかに女武芸者、清水雪緒のきりっとして女らしい顔が浮かび上がった。
「やはり、よいな……」
 気持ちが高揚してくる。
 浮雲に言った言葉を思い出した。やはり自分は女なのだ。(p.180)

これは終盤で、志乃が雪緒に変身する場面です。志乃がやっと女であることを自覚しているのがわかりますが、鏡に映る志乃の「女らしい顔」という表現に引っかかりを感じます。日常的に男装している志乃が女の姿になったために、「女らしい顔」としているのかもしれませんが、志乃はもともと女なのですから、「女らしい顔」というよりは「女そのものの顔」「女としての顔」が戻ってきた、もしくは現れたということですよね。しかも「女らしい」という抽象表現は、読む人によって思い描くイメージが異なるため、具体的に表さないと、志乃(もしくは雪緒)がどんな女性であるかをイメージできません。そのあたりにモヤモヤしますし、女性としての志乃の存在が雑に扱われすぎなのではないかと思うのです。

歌舞伎での女形が本当の女性とは異なるように、男になりすました女性は、本当の男性とは異なります。その異なり具合を味わうのが女形の演技であり、「男になりすました女」のストーリーです。本作では、そんな「男になりすました女の生き方」よりも、「女性が変身すること」「女性が男性をバッサリ斬りまくること」を楽しむべきだとはわかっているのですが、どうもモヤッとするんですよね。だって、変身してバッサリと斬りまくる「本体」である女性が魅力的でないと、物語は面白くなりませんから。


発売日:2022年4月14日