時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

白蔵 盈太『画狂老人卍 葛飾北斎の数奇なる日乗』(文芸社文庫)

キャラクターで読ませるか、ストーリーで読ませるか、はたまた世界観で読ませるか。どれで読ませる小説がいいのかといえば、この三つをしっかり兼ね備えているのがベストです。しかしそれが簡単にいくなら、すべての小説家のすべての作品が直木賞やら山本周五郎賞やらを受賞してしまいます。つまりどんな小説でも、ある程度は「キャラクター」「ストーリー」「世界観」のいずれかに比重が傾いているということですね。

さて本作はどうかというと、9割方キャラクターで読ませる小説です。葛飾北斎という(いろんな意味で)とんでもない絵師が出てきますし、その娘・お栄の(いろんな意味で)とてつもない女性像も面白いです。お栄に片思いをしている絵師・英泉のキャラクターもいいですね。

「弟子なんかじゃねぇ。こいつは十年ほど前にたまたま近所に住んでただけだ。(中略)本当にろくでもない奴だよこいつは」
 その途端、露骨につまらなさそうだった英泉の顔がパアッと明るくなった。
「何を言ってんだよお栄ちゃん、冷たいなあ。昔はよく一緒に遊んでやった仲じゃないか。あの頃のお栄ちゃんは本当に可愛いらしかった」
「うるさい。そういう話はうちじゃなくて、自分ちでやんな。とっとと帰れ、この雲助野郎が」
 英泉はうれしそうに自分からベラベラと陽気にしゃべる。さっきまでの、常次郎に対する淡泊な態度とは大違いだ。
「ひどい言われようだ、俺は悲しいよ」
「露ほどもそんなこと思ってないくせに白々しい。女に色目ばっかり使いやがって」(p.85)

このお栄との会話でも、英泉のキザっぽいけど憎めない性格が見えますね。優男で女好きだけど、じつは純情、みたいな。少女漫画で、主人公に言い寄ってくる脇役として出てきそうなタイプです。ジェンダーフリーの時代にこういうことを書くのは憚られるのですが、男性作家さんで英泉のようなキャラクターを面白く書ける方は多くないと思います。実際の男性には、めったにいないタイプの設定キャラですから。

キャラクターで読ませる作品は、登場人物同士のかけ合いが面白く、するすると読めることが多いものです。本作もまさにそのとおりで、あっという間に読めてしまいました。それは作者さんが、読みやすさをかなり意識して書かれているからじゃないかなぁと思いました。長い台詞の途中には段落を入れてますしね。読者へのホスピタリティがあふれています。

そして、こちらも読みやすさを意識しているのだとは思いますが、一行空けが異様に多いです。一行空けといえば、私の中では「場面展開および一定時間の経過、視点の切り替え、回想シーンの挿入など」といった場合に用いられるイメージです。本作でもそういった箇所に用いられてはいますが、それ以上に「どうしてここに?」という箇所に多用されています。

 そう言ってお栄は目尻を下げて笑った。普段の眼光が人一倍鋭いせいか、笑うとやけに親しみやすい印象になる。常次郎はわけもなく胸が高鳴り、頬が少しだけ赤くなった。するとお栄は黙って袂から煙管を取り出し、煙草を詰めはじめた。

 ……え? この人、煙草吸うの?
 常次郎は少しだけ幻滅した。たしかに商家や農家の女で煙草を吸う者もいるが、煙草を吸う女といえば、誰もが真っ先に思い浮かべるのは吉原の女郎だ。(後略)(p.18)

この引用部分でも一行空けが用いられていますが、必要ない気がするんですよね。なくても十分に読みやすいですし、話の展開にも差し障りありません。かえって一行空けたことで、何か特別なことが起こるかのような期待を抱かせるため、読者が肩透かし感を覚える可能性も秘めています。というか、実際に読んでいて「おっ、一行空けか。何か変化があるのか? ……ないんかーい!」ということが何回もありました。

また、あまりにも一行空けが多いせいで、本当の意味で必要な一行空け(場面転換など)が埋もれてしまい、いきなり場面が変わったり、時間が過ぎたり、視点が変わったり、回想に入ったりしているように感じられるところもありました。「一行空け慣れ」してしまった、とでもいうんでしょうかね。本来なら物語の起伏や変化をつけるための一行空けの多用で、かえって物語が平板なイメージになっているような気がします。もったいない。

また、登場人物の一人である北渓の、地の文での呼び方も気になりました。本作の地の文では、登場人物名は基本的に呼び捨てなのですが、なぜか北斎の一番弟子・北渓だけが「さん」付けなのです。これは収録の六つの話のうち、三話目までは北斎の最年少の弟子・常次郎の視点で進むためでしょう。兄弟子だから呼び捨てにできないってことですかね。でも、師匠である北斎も、その師匠の娘であるお栄も呼び捨てですが。

まぁまぁまぁ、それはそれでそういうものなんだろう、と頷きながら読み進めると、四話目でいよいよ頷きが首のひねりに変わります。冒頭は三話目までと同様に、常次郎の視点で進みます。お栄の結婚にまつわる話と北斎とお栄の川柳の話が、常次郎の視点で述べられているかと思ったら、一行空けのあとに視点に変わります。

 言い終わる前に吐き気が込み上げてきてお栄がえずきはじめたので、常次郎は慌ててお栄の背中をさすった。
「まったくもう、本当に困ったお人だな。気持ち悪いんなら無理してしゃべらないで、黙って下向いててください」
「おええええ」

 特に用もなく北斎の家に顔を差した北渓さんを、英泉が強引に茶屋に連れ出したのはその翌日のことだ。
 英泉は深刻そのものの表情を浮かべ、暗い声で言った。
「魚屋の兄貴、あいつら、できてるよ」 

 ああ、ついにその話が来たかと北渓さんはうんざりした。(p.159-160)

一行空けの前後で、視点が変わっていますね。前のほうが常次郎、後ろのほうが北渓「さん」です。あえてカギカッコをつけましたが、北渓の視点になったのに、北渓には相変わらず「さん」付けです。自分で自分に敬称を使っているかのようで、不自然ですね。プロットの段階で、途中から視点が常次郎から北渓に変わることがわかっていれば、北渓の「さん」付けは最初から不要というよりは邪魔になると気づけると思うのですが、どうなのでしょう。

さらにこの後には、英泉視点になる部分もあったり、またもや北渓視点に戻ったりと、視点がとっ散らかった展開になります。それならいっそ、冒頭から北溪視点か英泉視点、もしくは多元視点でよかった気がするのです。視点がコロコロ変わるせいで、「これ、だれのモノローグだ?」と混乱したり、せっかくのストーリーがわかりにくくなったりしていますので。

またこの四話目では、北渓および英泉視点に変わってからの話がかなり長いため、冒頭の常次郎視点の話が浮いてしまっています。浮かせてまで冒頭に出したということは、お栄の結婚の話や川柳の話が、話(章)の最後に何らかのつながりをもつのかな? と思ったのですが、そういったこともありません。ならば、やはり最初から北渓および英泉視点、もしくは多元視点にしたほうが、一つの話(章)としてはまとまったんじゃないかなぁ、と。展開上、どうしてもお栄の結婚の話が必要なら、出戻ってきたとき(一話目)に入れてもいいですし、北斎の川柳の柳号(卍)の話が必要なら、その話が再び出てくる六話目に入れてもいいんじゃないかと思います。

それに、きちんと多元視点(少々蔦重寄りですが)になっている五話目は、最初から最後まで違和感なく面白く読めるので、四話目だって多元視点で行こうと思えば行けたと思うんですよね。もし私が作者さんの友達だったら、「四話目も多元視点で行こうぜ! 君ならできるさ!」と肩を叩いて励ましつつ、夕日に向かっていっしょに駆け出してたんじゃないかなぁ。すっげぇ迷惑だとは思いますが。


発売日:2022年4月5日