時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

神永学『浮雲心霊奇譚 血縁の理』(集英社文庫)

心霊探偵八雲』シリーズでおなじみの作家さんによる、「時代小説の最前線」(帯より)となるシリーズ『浮雲心霊奇譚』の6作目です。『心霊探偵八雲』の主人公・八雲と同じ赤い目を持つ浮雲が主人公であるのを見ても、帯の「『心霊探偵八雲』の原点がここに――」という煽り文を見ても、2つのシリーズは地続きになっているということなんですね

大人気シリーズを書かれている作者さんの作品だけあって、本作は非常に読みやすいです。読みやすさにはいろんな定義がありますが、本作というか神永学さんの文章の読みやすさのポイントは、ビジュアライズされていることです。「読んでいて映像が浮かびやすい」ということですね。だからといって、物事の描写が細かいとか、「ドーン」「バーン」みたいな擬音や大袈裟な表現を使っているとかではありません。小説の視点の使い方がとても独特であるために、読みやすくなっているのです。

「これで、お前は二度と刀を握れないし、賭け事をすることもできない。大人しく、お縄にかかり裁きを受けろ」
 近藤が、持っていた木刀を下ろした。
 ――終わった。
 そう思った刹那だった。
 達一郎が、海老のように身体を仰け反らせたかと思うと、ぶはっと口から血を吐いた。
 ――何だ? 何が起こった?
 見ると、達一郎の胸から、刀の切っ先が突き出ていた。
 何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう。
「現れやがったな!」
 浮雲が叫ぶ。
 それと同時に、達一郎の身体から刀が引き抜かれる。
 どさっと達一郎がその場に倒れ、背後から姿を現したのは、まるで箪笥のような笈を背負い、一本髭を生やした小柄な翁だった。
 八十八は、その人物に見覚えがあった。
「蘆屋道雪――」
 浮雲が、その名を口にした。(p.93-94)

小説の「視点」は、基本的に最初から最後まで固定されます。主人公視点で書き出したならば、最後まで主人公視点です。そこに主人公の母親とか友達とか、マックにいる女子校生などの、ほかの人の視点が入ってくるのはNGです。連作ものや主人公が複数人いる作品では、何度か視点を切り替えながら進むことがありますが、それでも一行空けや章の切り替えなどの区切りとなる部分までは、視点をブレさせることはほぼありません。

本作は、浮雲のワトソン役・八十八の視点で綴られています。この引用部分の直前までも八十八の視点で進み、一行空けなどの区切りなしで引用部分につながっています。ですので、八十八の視点であるとして引用部分を読み進めると、

 近藤が、持っていた木刀を下ろした。
 ――終わった。
 そう思った刹那だった。

この部分で、「この『終わった』って思ったのってだれ?」と思うはずです。答えはもちろん八十八なんですが、近藤のモノローグであるようにも思えるんですよね。もしくは、この場面を客観的に見ていた「だれか」の感想とも思えます。つまり、だれが「終わった」と心で思ったのかが、いまいちはっきりしないんです。さらに続けて読むと、

 ――何だ? 何が起こった?
 見ると、達一郎の胸から、刀の切っ先が突き出ていた。
 何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう。
「現れやがったな!」
 浮雲が叫ぶ。

この部分でも、「『何だ? 何が起こった?』ってだれが思ってるの?」という疑問が湧いてきます。これももちろん八十八のモノローグですが、続けざまに「何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう」といきなり推量の文章が出てくるせいで、混乱するんですよね。これ、だれによる推量なのでしょう。たぶん八十八だとは思うのですが、そうであれば「八十八は、何者が背後から刀で貫いたのだろうと思った」などと述べるのが正しいところでしょう。しかし「だれが」推量しているかがあいまいなせいで、八十八の推量とは思えないばかりか、ものすごーく客観的な推量であるように思えるのです。

続いての「浮雲が叫ぶ」も、八十八が浮雲の声を聞いたものとして述べているのでしょうけど、こちらも客観的すぎるんです。「浮雲が叫んだ」と過去形にするか、「八十八の横で浮雲が叫ぶ」などの表現にすれば、「八十八が聞いたことなのね」とすんなり納得できるのですが。

では、この引用部分で何が起こっているかというと、八十八の視点として描きながらも、第三者視点(ぽいもの)が混じっているということです。この(ぽいもの)というのがポイントで、視点の混じりがあるとは言い切れないけど、ないとも言い切れない。非常に微妙なラインの技法を用いているのです。私が指摘した「終わった」などのモノローグや、「何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう」という推量、「浮雲が叫ぶ」だって、八十八の視点だと言われれば、「そうっすかサーセン」としか返事のしようがありませんから。

こういった「視点の混在(ぽいもの)」は、避けようと思えば避けられるものですから、意識的か無意識かにかかわらず、何らかの意図のうえで用いているはずです。おそらくこれは、八十八の視点を読者の視点に切り替えるというか、八十八と読者の視点が重なるのを狙っているのだと思います。引用部分では人殺しが起こり、悪役ともいえる人物が現れているため、読者に恐怖や驚きを体験させなくてはなりません。そこであえて、八十八の視点によって彼の恐怖・驚きを示すのではなく、客観的な読者の視点に切り替えて、読者自身が「ギャー!」「うわっ!」と感じられるようにしているのだと思います。

つまり本作の「読んでいて映像が浮かびやすい」というのは、単純に目の前に映像が浮かぶような表現ではなく、作中の出来事を直接見ているかのように、読者に思わせる表現ゆえのことでしょう。体験型小説とでもいいましょうか。文章の内容が、読者の感情を動かすことに特化しているんですね。なので、本を読み慣れていない読者でも、スッと読めるというよりは「わかる」または「感じる」ことができる。万人に読まれるのは、そして部数が伸びるのは、こういう作品だなぁと、しみじみ思ってしまいました。

ただし、この「視点の混在(ぽいもの)」を新人賞への応募作品で用いると、あまりよい評価はもらえないような気がします。下読みや編集者、審査員の判断にもよるでしょうが、「視点、ブレてない?」と判断されかねませんから。実際、神永さんは新人賞デビューの作家さんではありません。だからこそ、こういった「ナシ寄りのアリ」の技法を躊躇なく使っているのかもしれませんしね。なのでこの技法は、たとえ優れているとしても、神永さんが用いているからこそ「アリ」なのであって、執筆初心者や新人賞応募者は真似しちゃダメ絶対ってことです。


発売日:2022年3月25日