時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

神楽坂淳『醤油と洋食』(小学館文庫)

時代小説は、明治以前の時代を舞台とした小説と定義されています。そうなると、執筆時の資料集めや時代設定に苦労しなさそうなのは、現在にもっとも近い明治時代といえそうです。

ほかの時代に比べ、明治時代の文献や資料はたくさんありますし、明治時代の文豪の小説を読めば、当時の風俗や雰囲気も十分に把握できます。東京をはじめとして、各地に明治時代の建築物も残っていますので、見学して参考にすれば、小説の時代背景をしっかり描くことができます。一方で、残っている文献や資料、建築物などを正しく参考にせず、あいまいに書いてしまうと、粗が目立つ可能性があるのが、明治時代の時代小説といえるのではないでしょうか。

本作は明治時代末期の女学生三人による、恋と食べ物の物語です。食に関する時代小説を数多く書かれている作家さんだけあって、食べ物に関してはかなりくわしく書かれています。しかし時代設定においては、つっこみどころが満載です。以前、私は明治時代の資料を読みまくり、明治時代に関する場所を取材したことがあるせいかもしれませんが、本作の登場人物の紹介を読んだ時点でつっこみまくりました。

鈴川八重……江戸時代から続く、麻布にある料亭「鈴川」のひとり娘で、目白の椿山女子大学に通う女学生。(後略)(p.4)

主人公・八重の紹介文に「椿山女子大学」という学校名がありますが、明治末期に「大学」と名乗れる学校は四つの帝国大学だけだったはずです。また、目白という地名を出しているので、日本女子大学校(現在の日本女子大学)をイメージしているのかもしれませんが、大学と大学校には違いがあります(興味がある方はググってみてください)。そのあたりを理解しないで、この「大学」を設定に入れたということでしょうか。そしてその点を、編集者および校正・校閲はなぜ見逃しているのでしょうか。非常に気になります。

さらに、主人公たちがその「大学」でどんなことを学んでいるかが、本作ではまったく述べられていません。彼女たちは「大学」に行っても、食事の話と食事をするだけです。それなら「大学」に行く必要なんてないじゃないか! と、腹が立ちました。なぜなら、当時、高等教育を受けようとする女性は、かなりの向学心に溢れていたはずだからです。

「女に学問は不要」といわれ、「女は二十代に入るころまでに結婚するのが当たり前」だったこの時代に、婚期を遅らせてまでハイレベルな学問を修めるというのは、社会的なリスクを背負うことであり、変わり者扱いをされることを覚悟しなければできないことです。残念ながら、本作の「大学」に通う女性たちからは、そんな気概を窺うことはできません。それなのに彼女たちが、やたら女性の社会進出を促すようなことを話しているのは、とてもちぐはぐです。

 庭には通学用の自転車が一台置いてあった。鈴川のある麻布から、目白の椿山女子大学までは自転車で四十分ほどである。
 途中坂も多いので、なかなかに体が鍛えられる道のりであった。
 自転車にまたがると、自分に気合を入れる。
 今日も元気に。
 女学生をやろう。(p.10)

この八重に関する叙述からも、向学心はほとんど読み取れません。正直なところ、「今日も元気に。女学生をやろう」のところでがっくりしました。当時の高等教育を受けるレベルの女子の言葉とは思えないからです。

また本作では、街並みの説明がほとんど端折られており、当時の東京の様子がよくわからないままになっています。この引用部分でも、麻布から目白まで行く道のりの様子について、「どんな坂をどのように自転車で駆け抜けたか」「通り道にはどんな建物があったのか」などの記述はありません。そういったことを書かなければ、読者は設定された時代の中に入っていけません。明治時代の地図はネットでも見られるのですが、執筆時にチェックしていないんでしょうかね。うーん……。

 椿山荘は総理大臣をつとめて、公爵に叙されている山縣有朋の別邸である。椿山女子大学には出資もしていて関係は深い。
 だから椿山の生徒の花見として椿山荘を借りるくらいの関係性はあるだろう。ただしそれは庶民にはまったく関係のない世界の話だ。(p.192)

これは八重の同級生である唯子が、椿山荘での花見を提案したあとで、八重のモノローグ的に述べられている部分です。ここ、何だが言い訳くさいんですよね。最初に「椿山荘で花見をする」と唯子が言い出したとき、私は「えっ? 山縣有朋邸にどうやって入り込むの?」と思いました。そのあとにこの文章が来ていたので、これは後付けした文章なんじゃないかなぁ、言い訳じみたずるい文章だよなぁと思ったのです。

「椿山の生徒の花見として椿山荘を借りるくらいの関係性はあるだろう」とありますが、はっきり言って、そんな関係性は一介の女学生にはないですね。唯子の父である、「日本の実業の帝王」と謳われる小倉矢八郎が山縣に頼み込むなら、ぎりぎりアリな感じです。それに山縣は、陸軍で権力闘争をするぐらいのゴリゴリの軍人なので、女子教育に熱心だとは思えませんし、女子の「大学」に出資するとは思えません(実際、山縣有朋日本女子大学校には出資していません)。

 そしてとある日曜日。
 四人は椿山荘に赴いたのだった。

「すごいわね。この別荘。お城って言われても信じるわ」
 八重は感心した。
 とにかく広い。普段外から眺めているが、中に入ると思ったよりもずっと広かった。(p.207)

椿山荘はどんなところか――その説明はこれだけでした。「お城って言われても信じる」「思ったよりもずっと広かった」という言葉だけで、当時の椿山荘をイメージできる読者は少ないと思います。私はまったく想像できませんでした。現在の椿山荘の公式サイトや、さまざまな資料にも当時の椿山荘の写真は掲載されているのに、なぜそれを参考にして描写しないのでしょうか。私が作者さんなら、そういった写真を参照したうえで、現在の椿山荘を訪れて確認すると思います。プロの作家というのは、そういう努力をするものではないでしょうか。

 日露戦争が終わった後、銀座にはさまざまなカフェが出現した。(p.27)

本作の舞台である明治40年は、37~38年の日露戦争の影響で、社会情勢がかなりゴタついていました。本作でその戦争の影響に触れているのは、この一文だけです。当時、戦争の影響で不景気となり、日比谷焼打事件が起こり、40年のはじめには株価の暴落が起こるなど、暗い雰囲気があったはずです。なのに、そういった社会的雰囲気の描写はゼロ。これでは何のために明治40年を舞台にしたのかがわかりません。

ここまで述べたほかにも、「白菜がこの時代に一般的に手に入る食材だったのか」とか「『日本の実業の帝王』と謳われる小倉矢八郎に爵位がないことは放っておいてもいいのか」など、つっこみどころはいくつもありますが、まずはここまでにします。

このような感想を書くと、「いちいちうるせぇな」と怒る人もいるでしょう。ならば、勝手に怒っていていただきたい。読者にお金を支払ってもらって読んでもらう小説というのは、起承転結のある話を綴ればいいというものではありません。作者が持っている知識や経験だけでなく、文献・資料の読み込みや取材を積み重ねて作り上げた世界の中へと読者を導くのが、プロの小説家が書く小説です。そういった努力を怠っているのか、必要ないと思って省いているのか、あえて時代設定をゆるくしているのかはわかりませんが、ストーリーに都合のいい設定だけで構成された小説を読むと、何だかバカにされた気分になってしまうのです。


発売日:2022年4月6日