時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

澤田瞳子『若冲』(文春文庫)

タイトルどおり、本作の主人公は伊藤若冲です。江戸時代の有名な絵師の一人で、数年前の展覧会では、かなりの人を集めたことで話題になっていましたね。また、2021年の東京パラリンピックの開会式では、若冲の絵で装飾されたデコトラが出ていました。

そんな若冲の絵をはじめて見たとき、私は「うへぇ」と変な声を上げたことを覚えています。はっきり言って、美しくないんです。グロテスクとまではいかないけれど、いわゆる「芸術」「美術」の範疇から外れているような感じ。だからといって、嫌いではありません。好き嫌いでいえば好き。若冲の絵にそんな不思議な気持ちを抱いている人は、私以外にもいるのではないでしょうか。

「絵は美しければ美しいほど、喜ばれるもん。そやから絵師はすべからく、絵を見る者に媚び、一つの綻びもない草花を描くべきなんどす」
 さりながら世人は、本来ならば醜いはずの穴の空いた糸瓜の葉、立ち枯れた百合の花を好んで描く若冲を奇矯の画人と賛美し、その絵を競って求めた。(文庫版 p.378)

これは若冲の亡き妻の弟・弁蔵が、絵について語った部分です。「絵を見る者に媚び」というのは、職人(アルチザン)としての絵師の姿のことでしょう。そして「本来ならば醜いはずの」ものを描いた若冲のような絵師は、芸術家(アーティスト)といえるかもしれません。

この職人と芸術家の違いとは、needとwantの違いでもあります。パトロンや依頼主の「こういうのが欲しい!」という必要性(need)に沿って創作を行うのが職人、己の「俺はこういうのがつくりたいんじゃ!」という欲望(want)から作品を生み出すのが芸術家、といったところでしょうか。日本では、古代から職人はかなりいるのですが、芸術家は意外と少ないです。江戸時代まででいえば、有名どころでは運慶と伊藤若冲ぐらいじゃないでしょうか。

では、この欲望ともいうべきwantは、どこから生まれているのかといえば、それは「業」でしょう。「描かずに死ねるか」とか「これしか描けない」といった、だれの理解も共感も望まない、ただ「描く」というだけの熱意というか、宿命というか、業としか言いようのないものが若冲のwantであるかのように、作者の澤田瞳子さんは描いています。

(これは浄土や。そう、わしは浄土を描くんや)
 鳥も花もすべて、生きることは美しく、同時に身震いを覚えるほど醜い。
 無数の蟻に食い荒らされる、腐った柘榴。木の枝からぞろりと垂れ下がり、風に蠢く葡萄の蔓。生きることは死ぬことと同義であり、生の喜びを謳うことは、日に日に終焉に向かう命を呪うことと紙一重。ならばこれまで生きる苦しみのみを描いてきた自分はどんな画人よりも、草木国土がこぞって晴れやかなる命を礼賛する浄土を描くにふさわしいはずだ。(文庫版 p.324)

この若冲の独白も、業の塊といえるものです。納得できる理屈ではあるものの、決して共感はできません。そのうえ若冲は、絵を描く際に一切「ウケ」を狙っていません。そして作者の澤田さんも、若冲については「ウケ」を狙って書いていません。小説では、主人公となる人物には何らかの愛嬌となる部分を入れるものですが、本作の若冲には愛嬌の「あ」の字も、愛想の「あ」の字もありません。若冲に共感できる読者はほとんどいないでしょう。妻が自殺したことはかわいそうと思えても、「わかるー」と気軽に言えるような共感にはは至らないはずです。

じつは、この「共感」というものがくせものです。共感とは、その人の想像力とか経験とかの範囲の中で、「わかる」と思えることです。どんなに素晴らしいものでも、自分の範疇以上のものには、人は決して共感はできません。小説であれば、読者の範疇・レベルに収まるものにしか、共感は生まれないということです。本作の若冲も、ハイレベルな絵師でありながら共感を得られないということは、読者の常識とか固定観念をはるかに上回るものを持っているからでしょう。

おそらく澤田さんは、あえて若冲を共感できないキャラクターにしているのだと思います。そうすることで、若冲が私たちの一般的な感覚からははみ出している人であることを表し、若冲の絵をも簡単に理解できるものではないと表現しているのではないでしょうか。

「素人の身で、詮無きことを申しました。なるほど若冲どのがそう仰せられたのであれば、我々にはそのお言葉こそが真。あの屏風が誰の手になるかなぞ、若冲どのを知らぬ百年――いや千年先の暇人どもが、言い争えばよきことでございまするな」
(中略)
 これから何百年も後、ひょっとしたら何者かがこの男のように、あの二つの屏風の作者に異議を唱えるかもしれない。しかしそれは所詮、若冲の生きた意味、絵を描き続けた意味を知らぬ者の語る由なし事。どれだけ懸命に思いを巡らせたとて、彼らが若冲の――そして君圭の胸裏に迫ることは叶うまい。
 さりながらあの二つの屏風に籠められた謎が永遠に解けずとも、鳥獣が憩い安らう華やかなる絵は確かにそこにあり続ける。(文庫版 p.358)

「華やかなる絵は確かにそこにあり続ける」とあるように、若冲の絵はいいとか悪いとか、駄作だとか凡作だとか傑作だとか、そういう評価を当てにしていないと、澤田さんは定義しています。作者による何らかの定義は、わざとらしかったり嫌味っぽかったりするのですが、本作ではそんなに臭いはひとつもありません。それは、この定義に至るまで、若冲が絵に向かう様子を客観的に、そして主観的にじっくりと描いているためでしょう。「こういう絵を描く人なら、そういうもんだよね」と、読者が知らず知らずのうちにハラオチする仕組みです。うまい。

 若冲はんの絵はきっと、と弁蔵はわずかに声を上ずらせた。
「美しいがゆえに醜く、醜いがゆえに美しい、そないな人の心によう似てますのや。そやから世間のお人はみな知らず知らず、若冲はんの絵に心惹かれはるんやないですやろか」
 そう考えれば、全てが納得できる。何故、世人は端整秀麗な円山応挙の絵を求める一方で、奇抜な若冲の咲くを渇仰したのか。彼らは知らず知らずのうちにあの奇矯な絵に、自らでは直視することの出来ぬ己自身の姿を見出していたのだ。(文庫版 p.380)

本作を読み終えたとき、「これは澤田版『月と6ペンス』だな」と思いました。画家・ゴーギャンをモデルにして書かれた、サマセット・モームの代表作です。こちらに出てくる画家のストリックランドも、若冲と同様に、絵を描く以外のことはグダグダで、「描くことで生きていた人」でした。それは「絵を描くことで生計を立てる人」という意味ではなく、「絵を描くことでしか生きる意味を見出せない人」ということです。そんな人には反発や軽蔑しか向けられないものですが、共感を超えた驚きの感情によって、ストリックランドにも若冲にも、「わからないけどわかってあげたい」という気持ちを抱いてしまう――それがこの二作に共通するすごさだと思います。


発売日(文庫版):2017年4月10日