時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

田中啓文『崖っぷち長屋の守り神』(角川文庫)

もしや『蠅の王』の作者さんでは? と思ったら、やはりそうでした。私としてはホラー作家のイメージが強い作家さんですが、本作のような時代小説をはじめとして、さまざまなジャンルの作品を書かれているのですね。

本作は時代小説の中でも、いわゆる「長屋もの」です。主人公は、公家の次男坊でありながら、とても公家とは思えないビジュアル(表紙イラストにもある、牛魔王みたいなおっさん)の兜小路梅王丸。本作には、彼が家守をする大坂の長屋に珍しい商売をする店子たちが集まり、事件が起こる様子を描いた二つの話が収録されています。一話目は、料理人だった父親の仇を討つために、料理勝負に挑む少女・千夏の物語です。二話目は、将棋が強いにもかかわらず、あえてわざと負ける「負けたる屋」をしている旧太郎の物語に、梅王丸の長屋に住むお蜂の物語が絡む構成になっています。

それぞれの話の流れは、じつにお見事です。主人公および主要キャラクターに降りかかる困難のレベルが、結末に向けて難易度が上がっていくという、エンタメ小説のお手本のような展開になっています。しかし、そのわりには面白さを感じにくいな、というのが正直な感想です。その原因は、会話にありそうです。

本作はライトノベルのごとく、会話を中心にして物語が進みます。それ自体は悪いことではありませんが、その場合は「会話の面白さ」がそのまま「小説全体の面白さ」になります。つまり本作では、会話が主体なのに会話があまり面白くないため、小説全体の面白さも感じられなくなっているのです。

 大男は、男にぐいと近づき、その胸ぐらをつかむと、
「この子に金を払うてやるその代わりに、おまえにはつぐないをしてもらう」
「つぐない?」
「おまえは虎に噛まれたことがあるか?」
「アホな……あるわけない」
「では、狼に?まれたことは?」
「おまへん」
「ならば、犬に噛まれたことはあるだろう」
「いやー、それもおまへんなあ」
「そうか。ならば、人間に噛まれたことはあるか?」
「いっぺんもおまへん」
 男がそう言ったとたん、大男は男の尻をまくり、右の尻たぶにがぶり……と噛みついた。
「ぎょえええええーっ」
「これがおまえのつぐないだ。この痛みをよう覚えておけ」
「ひえええっ」
 尻に歯形のついた男は転がるように逃げ出した。(p.20)

これは第一話(一番勝負)にある、梅王丸(大男)と、梅王丸にやりこめられて弱気になっているモブキャラ(男)との会話です。おそらくここは笑いをとる場面だと思うのですが、私は笑えませんでした。

まず初っ端に、モブキャラが「つぐない?」と鸚鵡返しをしています。会話で鸚鵡返しを見たら、「手抜きだな」と思うのが私のクセです。なぜなら、鸚鵡返しがなくても会話を進めることができるからです。もしくは、「つぐないって、何をさせる気や……」みたいにモブキャラの弱気な状態を匂わせて書くべきなのに、端折っているとしか思えないからです。そしてモブキャラが弱気になっているのならば、「おまへん」の連続返答においても、何をされるのか……とビクついた様子を見せるのがふつうでしょう。しかし、そういった様子の叙述はありません。

さらに、「ぎょえええええーっ」「ひえええっ」といった悲鳴だけで、モブキャラの痛みや驚きを表すのは無理があります。あとから「尻に歯形のついた男は転がるように逃げ出した」と説明していますが、これだけでは相手が弱気ではなく、強気な状態であっても通用してしまいます。尻を噛むという絶好の爆笑シーンなのですから、モブキャラがどんな反応をしたかを十分に書かなくては、帯で銘打っている「笑いと涙の痛快時代小説」にはならないのではないでしょうか。

「あははは……こどもが勝つはずがない。(後略)」
「それはわしが言いたい台詞だ」
「あっはっははー。欣也、絶対負けるんやないぞ」(p.54)

「あかんで、飲んでばっかりは……。ちゃんと貯めるもん貯めとかんとあとで往生するで」
「わっはっはっは……おまえと暮らしておると無駄遣いせずにすむな」
「へっへっへー」
 千夏は鼻の下を人差し指でこすった。(p.253-254)

本作の会話における台詞には、「あははは」といった笑い声や、「えへへ」「ふむ」のような合いの手的な言葉が頻繁に入ります。こういったものは、「〇〇は苦しげに笑った」などと地の文で説明したり、省略してもいいと思うんですよね。あってもなくても、会話の面白さにはあまり影響しないので。それでもあえて書いているのは、会話のリズムを優先しているためか、作者さんが頭に浮かんだことをそのまま書いているかのどちらかでしょう。それはそれでいいのかもしれませんが、小説の中の台詞はあくまでフィクションなのですから、徹底的に作り込んでほしいと個人的には思います。日常会話よりも面白くわかりやすいものであってほしいと、個人を超えて思います。

さて、本作の主人公の名前「梅王丸」の名前に、ピンときた方もいるでしょう。そう、歌舞伎の演目でおなじみの『菅原伝授手習鑑』です。登場人物に三つ子がいるのですが、その中の長男の名前が「梅王丸」です。この梅王丸は牛車を扱う舎人で、非常に荒っぽい男です。本作の梅王丸も腕っぷしが強く、牛を飼い、さらに牛の角のようなものがついたバイキングっぽい兜をかぶっています。そこまで『菅原伝授手習鑑』のオマージュをするならば、梅王丸の弟――松王丸や桜丸も出てくるのかと思いましたが、出てきません。それ以外でも、『菅原伝授手習鑑』をオマージュした部分はなさそうです。

本作はシリーズものの第一作のようなので、松王丸や桜丸は二作目以降に出てくるのかもしれませんが、ほかに『菅原伝授手習鑑』に絡んだ内容もなさそうなのに、どうしてわざわざ梅王丸という名前を出してきたんでしょうか。あまり必然性がない気がします。ただ、作者さんはウィリアム・ゴールディングの小説と同じタイトルの『蠅の王』や、綿矢りさの『蹴りたい背中』のタイトルをもじった『蹴りたい田中』などの小説を書いているので、単に元ネタをいじるのが好きなだけという可能性もありますが。

梅王丸の名前に感じた「必然性のなさ」は、第一話(一番勝負)に出てくる千夏も同様です。どうして千夏が10歳という年端もいかない少女でなければならなかったのかが、よくわかりません。料理対決において、対決相手である料理人・欣也に「子どもだから負けるはずがない」と思わせるためかもしれませんが、千夏はまともに料理の修行をしていないのですから、その時点で欣也は「負けるはずがない」と思いそうなものです。そのため、千夏がたとえ16歳だったとしても、20歳だったとしても、あまり物語に変わりがないように思えます。そこにちゃんとした理由があるのかもしれませんが、本作で見えないということは、こちらも二作目以降にわかるのかもしれません。

小説において、何もかもが必然性を含む必要はないでしょう。しかし、本作は曲がりなりにも人情話ですので、人と人をつなぐ部分での必然性はどうしても必要になるかと思います。もし必然性もへったくれもなく、ただ面白ければいいという路線に行くならば、もっとハチャメチャでもいいはずです。というか、本作はもっと弾けてもいい。梅王丸が牛に化けて敵をなぎ倒すとか、お蜂が蜂の大群を従えて戦うとか、鳥助が千社札を撒き散らして敵の目つぶしをするとか。続編ではそんな「長屋戦隊ガケップチャー」みたいなことをして、突き抜けてほしいと願っています。


発売日:2022年3月23日