時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

山田剛『人情出世長屋 てんやわんやの恩返し』(角川文庫)

読み始めてすぐに、「これは落語をやろうとしてるんだな」と思いました。会話部分が小説のものではなく、落語の会話に近かったので。

「何をするんですか」
「どうしてお前さんはうちの前にごみを捨てるんだ。何遍言ったらわかる。うちの前にごみを捨てるな!」
「捨ててません」
「捨ててる」
「捨ててません」
「捨ててるだろ。それはお前さんが捨てたごみだ。覚えがあるだろ」
「ありません。いつも言ってるでしょ、わたしは捨ててません」(p.262)

この会話は落語そのものですね。捨ててる・捨ててないの応酬など、落語家の話しっぷりがそのまま描かれているかのようです。

このように、小説に落語をはじめとした別ジャンルの要素を入れるのは、最近ではよく見られる手法です。この調子だと、収録の全5話のうち、どれかに落語がテーマの話が来るんじゃないかな……と思ったら、最後の第五話がそうでした。やっぱりね。

本作はタイトルにあるとおり、長屋を舞台に、店子たちに起こるあれやこれやの物語です。明確な主人公はいませんが、駕籠かきコンビの桂太と香太がどの話でも中心人物になっています。そして落語のように会話で話が進み、地の文が非常に少ないのが特徴です。

会話と地の文の比率は、小説のジャンルによって偏りがあります。純文学だと地の文が多めで、エンタメ性が強い小説ほど会話文が多めになりやすいのです。本作での比率は、会話が8.5、地の文が1.5といったところでしょうか。地の文は状況・人物説明でしか用いられていません。そのためか、本作全体の地の文が、長屋と店子の説明が必要な第一話の集中しています。

 目鼻立ちがはっきりしていてなかなかの男前だが、どこか愛嬌がある。年の頃は二十五、六か、紺木綿の単の股引に紺の腹掛けという出で立ちのその男は、駕籠かきの桂太である。
 その背丈は五尺五寸(約一六五センチ)と長身で、全身から溌剌として旺盛な活力が漲っている。(p.6)

たとえばこれは、第一話における桂太についての説明部分です。先に引用した部分のように、会話部分が落語のごとくテンポよく進んでいるにもかかわらず、地の文はいかにも「説明でござい」という感じで、しゃっちょこばっています。会話と地の文の温度差がすごい。しかも「どこか愛嬌がある」「全身から溌剌として旺盛な活力が漲っている」という説明だと抽象的すぎであり、ありきたりすぎます。桂太にどんな「愛嬌がある」のか、「溌剌として旺盛な活力」がどのようなものなのかを、作者さん独自の言葉で十分に説明しなければ、地の文が会話の添え物で終わってしまいます。

実際、本作では地の文は添え物なのかもしれません。おそらく本作は、会話を先に書いたうえで地の文を加えるといった書き方か、それに似た書き方をしているような気がするからです。書き方など作者によって違うのが当たり前ですから、小説として十分なものが書ければ、どんな書き方をしてもかまいません。しかし会話ありきで書いてしまうと、会話の勢いやノリのよさだけが悪目立ちして、上っ面の面白さだけの作品になってしまうことが多いのです。物語の深い味わいや余韻が消え失せてしまうことが多いのです。残念ながら本作は、そういった作品になっているように感じます。

 長屋の井戸端で、ばしゃばしゃと水飛沫を撒き散らしながら、桶に汲んだ水をぶつけるようにして、若い男が顔を洗っている。(p.5)

 今朝の出世長屋の井戸端には、珍しく店子の全員が顔を揃えていた。
 お熊、お亀、お仲、お久といった女房らは、水を汲んだり、食器などの洗い物をしたり、洗濯をしながら談笑している。(p.95)

 今朝も夏の陽が出世長屋の路地に射し込んでいる。
 井戸端では、お熊ら女たちが水を汲み、洗い物をし、桂太と香太ら男たちは顔を洗って談笑している。(p.173)

 一日の仕事を終え、夕餉を済ませた出世長屋の面々が、三々五々、いつもの空き家に集まった。(p.235)

 今年も七夕の季節がやって来て、一軒一軒に笹竹が配られた。
 めいめいが五色の短冊に、達筆のお久のほかは、それなりの字で願い事を書いて、七夕飾りを拵えた。(p.303)

これらの引用は、すべて各話の最初の部分です。小説の冒頭はいわゆる「つかみ」であるため、魅力的な文章にするように心がけるものですが、これらは五つともすべて面白くありません。落語がこんな始まり方をしたら、マクラが終わる前に客が帰ります。長屋が舞台なので、みんなが集っている場面をオープニングにしようとしているのでしょうけど、すべて似たような場面で「談笑している」か「集まっている」かのどちらかになっています。せめていずれかの冒頭を会話にするとか、だれか一人の視点に搾るとか、いろいろな変化のさせ方があると思うんですが、そういう工夫は見えません。やはり本作では、地の文は添え物扱いなのかもしれません。

せっかく小説に落語のエッセンスを織り込むのであれば、会話だけでなく、地の文にも落語っぽさを取り入れるべきでしょう。落語は、やたらご隠居と与太郎が話しまくる「会話が面白いだけの噺」ではありませんから。まずは「最近は何でもかんでもスマホってことで、そのうちトイレで尻を拭くにもスマホが必要なるんじゃないかって。ヘイsiri、なんてねぇ……」といったマクラが入って、「江戸の世にも、そんな間抜けがおりましてねぇ」と噺が始まり、「そりゃあもう、鼻毛も凍るってぐらいの寒さでございまして」「こいつが蛙をひっくり返したような顔をしてやがるんです」と、状況や人物の説明が面白く、わかりやすいからこそ落語として成り立っているのです。

そして落語は、落語家の身体表現です。落語家の声の変化や身振り手振りがあってこそ、落語だといえます。だからこそ、落語をそのまま小説に取り入れることや、落語特有の会話のだけで落語のテイストを醸しだそうとするは不可能なのです。落語でできることと小説でできることは違うのですから、落語を小説に取り入れるならば、落語そのままではなく、小説として加工すべきです。落語家の身体表現を、文章でしか表現できないものに落とし込んでこそ、落語を小説に取り入れる意味があると思います。それができなければ、小説がただの無駄話ならぬ無駄噺になってしまうというものです。おあとがよろしいようで。


発売日:2022年3月23日