時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

泉ゆたか『髪結百花』(角川文庫)

闇を描いた小説。読み終えて、そう思いました。一貫して暗いのです。これは決して貶しているのではなく、陽の光の下ではわからないものが書かれているということです。江戸時代に生きる女性の、表には現れない苦しみと切なさが描かれているということです。しかも最後には、闇の先にある微かな光が描かれ、後味がよいものとなっています。

あらすじとしては、髪結いの娘であり、自らも髪結いとなった梅が、遊女たちとの交流の中で、自分の身の上や生い立ちの秘密を深堀りしていく……という流れです。

「わっちもあんたも、あの人と何も変わらなかりんす。あの人を憐れんでは、罰があたりんす」(文庫版 p.204-205)

花魁の紫乃が物語の後半で語るこの言葉どおり、どんな立場・どんな職業であろうとも、女性はすべて等しく、憐れみを捨てて描かれています。江戸を舞台にしたシスターフッド小説として、とても優れているのではないでしょうか。

 血の気の感じられない魚の腹のような白い肌だ。ふくらはぎに赤い虫刺されの跡が一つだけあるのが目立つ。乳房は抱え込んだ膝に押し潰されて見えない。無防備に立てた膝の奥に桃色の肉を認めてしまいそうで、梅は慌てて目を逸らした。(文庫版 p.53)

これは梅が、遊郭・大文字屋の花魁である紀ノ川の裸を見た場面です。醜悪とまではいいませんが、決して美しいとはいえない様子を、露骨なまでに描写しています。そして暗いです。昼間なのに陽の射さない部屋に同化するように、紀ノ川が闇の世界の住人として佇んでいます。このように本作では、「暗いもの」「醜いもの」の描写が非常に巧みです。それが本作から漂う暗さの理由でしょう。しかし一方で、「光るもの」「美しいもの」について述べる部分は、わりと単調です。

 身体の弱そうな女だ。どんな家にも喜んで嫁に迎えられるような、生気に満ち溢れた壮健な町娘とは対照的だ。それなのに人の目を奪う美しさがあった。いつまでもずっと横顔を盗み見ていたくなるような、人を引き付ける輝きがあった。(文庫版 p.14)

これは紀ノ川をはじめて見たときの様子を、梅の視点で描いた部分です。前半では紀ノ川のマイナス面、後半ではプラス面について描かれています。マイナス面のほうの表現は面白いですね。結婚した経験のある梅だからこその感想ともいえそうです。しかし、プラス面のほうは凡庸です。「人の目を奪う美しさ」「ずっと横顔を盗み見ていたくなる」「人を引き付ける輝き」と、かなりの褒め言葉が並んでいるにもかかわらず、紀ノ川のよさがあまり伝わってきません。

そして気になるのが、「人の目を奪う美しさがあった」の部分で、「美しさ」という表現を用いていることです。本作では、美しいもの・人を表現するときに、「美しい」「美しさ」と、そのままの表現をすることが多いのです。

 しかし珠緒は美しかった。
 物陰からでは、遠すぎて顔立ちをしっかり見分けることなぞできない。
 だからこそ、心持ちの健やかさが滲むように、底抜けに柔らかい笑顔が輝いて見えた。
 珠緒の丸い頬っぺたからは、遊女であった暗い過去など微塵も感じられなかった。花魁として立兵庫に鼈甲の簪を挿す姿は似合わない。(文庫版 p.160)

 紀ノ川は美しかった。濃紺の着物は、紀ノ川の豪奢極まりない髪と見事に調和していた。紀ノ川の灯籠鬢は提灯の光を透かし、背負ったしゃぐまと同じような金色の光を放つ。こめかみのおくれ毛が、紀ノ川の艶やかな頬に揺れる影を落とす。(文庫版 p.134)

 (前略)紫乃の髪は変わった。これまでは若さと器量の良さとできらきらと清流のような光を放っていた髪が、艶めかしい腰を備えるようになった。
 変わったのは髪だけではない。
 切れ長の美しい瞳の形はそのままに、少々丸っこく大味に見えていた鼻と口は、いつの間にか絶妙に美しい形に収まっていた。(文庫版 p.201-202)

この三つの引用でも、それぞれ「珠緒は美しかった」「紀ノ川は美しかった」「切れ長の美しい瞳」と、「美しい」を活用した表現が使われています。美しいものを「美しい」と表現するのは当たり前といえば当たり前ですが、小説ではそれを最小限にとどめるのが当たり前だと思います。

小説は言葉で作者のイメージを形づくります。作者が「美しい」と思ったならば、どんな美しさなのかを言葉で表現しなければなりません。もちろん「美しい」という言葉を使ってもいいのですが、こういった一般的な形容詞の表す様子は、人によってイメージするものが異なるため、注意が必要です。たとえば、ある人はおちょぼ口の女性を「美しい」と思うかもしれませんが、ほかの人は「美しい」と思わない可能性があります。作者が二重瞼の女性をイメージして「美しい人」と書いても、読者は切れ長の目の女性をイメージすることもあるのです。

そのために作者さんは、「美しい」と述べたあとに、美しさについての詳細な説明をしているのでしょう。ならば、その説明だけに「美しさ」を委ねてしまえば、「美しい」とわざわざ述べる必要はありません。しかも、そんな不要ともいえる「美しい」「美しさ」を多用することは、作者さんが自らの言葉で説明した「美しさ」に自信がもてていないかのような印象を受けます。それとも「美しい」と書いておけば、だれでも「美しい」と思ってくれるだろうと期待しているのでしょうか。

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭には、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という名文句があります。これは小説の表現にも当てはまっています。不幸な様子はバリエーションが多く、さまざまな表現で書きやすいものですが、幸福のほうはどれも似通っていて、「幸せそう」「楽しそう」といったありきたりな言葉での表現になりやすいです。光と闇でいえば闇、善と悪でいえば悪の表現のほうが作者の個性が出やすく、光や善のほうは均質化された表現になっていることが多いのです。

だから本作でも、「暗いもの」「醜いもの」の表現が優れていて、「光るもの」「美しいもの」の表現が一段劣るのは、仕方のないことかもしれません。しかし、そこにチャレンジしていくのが、小説を書くことだと思うのです。私のような一読者に何と言われようと、「これが私の『美しさ』なんだよ!」とこちらに投げつけてくる剛速球のような表現を、小説を、私は読みたいのです。そして「光るもの」「美しいもの」の表現が冴えれば冴えるほど、「暗いもの」「醜いもの」がより際立つはずです。

たとえば、夏目漱石の『坊ちゃん』での、坊ちゃんが美人のマドンナをはじめて見たときの表現。無骨な坊ちゃんがマドンナをどのように「美しい」と感じたのかが、ハッとするような表現で描かれています。あえてここでは引用しませんが、あれこそが「美しい」という言葉を使わずに、「美しさ」をだれもが「たしかにそれなら美しいね」と納得できるものにした表現だと思います。興味のある方はぜひ青空文庫でチェックしてみてください。すごいよ。


発売日(文庫版):2022年3月23日