時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

岩室忍『擾乱、鎌倉の風(上)黄昏の源氏・(下)反逆の北条』(祥伝社文庫)

小説って何でしょうね。そんな文学的というか哲学的なことを考えたくなったのは、本作を「小説じゃないねこれ」と思っているからです。本作の帯には「歴史大河小説」とあるので、広義では小説なのでしょう。しかしこれが小説だとしたら、夏目漱石が「俺の書いたものと同じ分類にするな!」とブチ切れて猫に化けて出てきそうですし、芥川龍之介は河童の皿を投げてきて、谷崎潤一郎は両眼を針で突き、三島由紀夫金閣寺に火をつけるんじゃないでしょうか。

本作はタイトルからも察せらるとおり、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と同じ時代を舞台にした小説です。……とは書いたものの、小説と認めるにはやはり抵抗があります。なぜなら、本作では歴史の流れは描かれていますが、物語としての流れは描かれていないからです。『吾妻鏡』などの一次資料を読み、ところどころで寸劇のような会話を入れ、作者の感想を書いているようなイメージです。

 主人が家臣に妻を差し出させた時代である。
 ことさらに騒ぎ立てるほどのこともないし、頼家を非道な男に仕立てる美談仕立てが気に入らない。(上 p.404)

 それにしても、この泰時という男のことを、頼家は駄目だが泰時は素晴らしいと、書き伝える辺りが恣意的でいやに怪しい。(下 p.22)

 どんな子でも母と血肉を分けた子である。実家が大切なのはわかるが、政子の振る舞いには納得できない。(下 p.39-40)

これらの引用部分の、「気に入らない」「怪しい」「納得できない」の主語は、すべて作者です。作者が「気に入らない」のであって、作者が「怪しい」と思い、作者が「納得できない」のです。この「作者の感情を入れる」という部分が、本作を小説から離れた別のものにしている気がするのです。

源氏物語』でも、「あはれなり」などと、地の文に作者の感想的表現が入りますが、こちらは100%客観的感想です。だれの目から見ても「あはれ」に思えるので、「これ、あはれですよねぇ。わかるかなぁ? わかるよねー」と入れているのです。しかし本作では、100%作者の主観的感想です。引用部分の前後を読んでも、「気に入らない」「怪しい」「納得できない」が、どんな人にも納得できる感想とは思えません。

どうしても作者の主観的感想を入れたいならば、せめて一次資料のどの部分を読んで、どのように「気に入らない」「怪しい」「納得できない」のかを書くべきではないでしょうか。そこらへんを徹底しているのは『村上海賊の娘』で、読者に理解できなさそうな時代背景などには、必ず一次資料の説明を入れています。入れすぎて、物語の流れが止まってしまうこともあるのですが、それでも説得力は担保されているため、読者は安心してストーリーに集中できるのです。

また、作者が「気に入らない」といった否定的な感想を漏らすのは、ほぼ北条政子北条義時のことを語るときに限られています。本作では、この二人が徹底的に悪者です。『鎌倉殿の13人』が北条義時を主役にしていることもあり、それと一線を画す必要があったのかもしれませんが。

 鎌倉政権の体制も仕組みもまだまだ貧弱で、十三人による合議制などと極めて曖昧なものだった。
 二代目鎌倉殿として頼家を守り育てて行こうという考えはない。
 その最大の原因は北条時政、政子、義時の三人が平家の血筋であり、源家より北条家の方が大切と考えていたからであり、鎌倉政権は北条家が支えてきたのだという北条親子の考えがあったからだ。(上 p.418-419)

北条家の人々には、自らの「平家の血筋」を尊ぶ精神、そして自分たちが鎌倉政権を支えているという自負があるとしているんですね。こういったことも一次資料のどのへんを読んで、そう思ったのかを書かなくては、単なる作者さんの感想話になります。

この引用部分からもわかるように、本作では北条家、とくに政子と義時を「源氏の血筋の人間を殺しまくり、邪魔な人間を殺しまくり、鎌倉政権を我が物にした人たち」といった扱いにしています。まぁ実際そのとおりなんですが、悪者扱いをするのであれば、何を基準にして善悪を決めるのかがポイントになります。

本作の舞台である平安時代末期~鎌倉時代初頭は、現在の私たちの倫理観や常識がまったく存在しない世界です。先述の引用部分にあるとおり、「主人が家臣に妻を差し出させた時代」ということでしょう。「人殺し、ダメ絶対」とか「親孝行」とか「きょうだい愛」とか、そういった現在の感覚とは異なっていたはずです。殺人そのものが、アリ・ナシでいったら「アリ」で、肉親だろうが幼子だろうが平気で殺すことも、わりと「ふつう」だった世界です。

では、そこにある善悪とは何でしょうか? 鎌倉政権の中心となっている北条家はもちろん、まわりの御家人も「殺しはアリ」「肉親を殺すことも子どもを殺すこともふつう」という感覚でいたら、そこでの善悪の基準はどこにあるのでしょうか? そして、その状況で政子と義時が「悪者」であるならば、何を基準とした「悪者」なのでしょうか?

また鎌倉政権は、史上初めての武家による政権です。それまでは朝廷主導だった国の政に、武士としてはじめて手をつけたのが源頼朝であり、北条家の面々であり、それに連なる御家人たちです。前例のないことですから、お手本もないわけです。そうなると、鎌倉政権の中心にいた人々は、どうやって政を進めるべきかもわからず、朝廷との程よい付き合い方もよくわからない、という状態だった可能性が高いと思います。

せめて鎌倉が物理的に都に近ければ、なんとなく朝廷の真似をしながら独自の路線を生み出せたかもしれませんが、群雄割拠かつ荒くれ者の集まりである坂東で、お手本もないままに独自の政をするのは無理がありそうです。前述の引用部分でも、「鎌倉政権の体制も仕組みもまだまだ貧弱で、十三人による合議制などと極めて曖昧なもの」としているのですから、この部分を土台にして話を進めないと、「政子と義時は悪者でした。怖いねー!」という話で終わってしまいます。

「やり方がわからないこと」と「悪質であること」は別です。前者は愚かで無様ですが、後者は狡猾で卑怯です。本作では政子や義時のやり方を後者にしていて、それは間違いではないでしょう。しかし本質は前者であって、無知で愚かな人間が現状を無理矢理突破するために、悪質な方法に手を染めていった……というのが、それこそ「愚かで無様」であり、作者さんの言うべきところの政子や義時の悪人っぷりだと思います。そして、「愚かで無様」から悪質さが生まれることを、「だれにでも起こり得ること」とするのか、それとも「政子と義時という稀代の悪人だから起こったこと」とするのかによって、話の筋や質が変わっていくものでしょう。

作中の悪者について、「この人、悪い人です!」と説明するだけで済ませられるのは、せいぜい『桃太郎』の鬼や、RPGのラスボスぐらいなものです。小説で悪を描くのであれば、その悪の根源を描かなければなりません。その悪の裏にある本質を描かなければ、小説ではないと思うのです。物語も深い感動も生まれないと思うのです。

 どこか血生臭い歴史の大波襲来を感じさせる、鎌倉の風が吹き始めた。
 それは頼朝の死という突風の後に、由比ガ浜から吹く春風の汐の香の中に、かすかに臭い始めている。(上 p.383)

ここをなぜ引用したかといいますと、異様に叙情的な表現をしている部分であり、読んでいてもっともイラッとした部分だからです。ここだけ妙にエモくて浮いているんです。取ってつけた感がすごいんです。そして、ここにタイトルにもなっている「鎌倉の風」という言葉が入っているんです。ここ、タイトルをつけてから後付けで書いたわけじゃないですよね? いや、別に後付けでもいいんですが、やるならうまくやってほしいだけです。「それは」が指す内容がわかりにくいとか、わざわざ夕方の海のことを言っているわけではないから、「汐」は「潮」のほうがふさわしいんじゃないかな、とか思っちゃうので。


発売日(上・下):2022年3月11日