時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

青山文平『白樫の樹の下で』(文春文庫)

「武士」がどんなものであるかについては、さまざまな定義があります。一般的には刀を差していて、いざとなったら目の前の人間をバッサリ斬ってしまうようなイメージでしょうか。しかし太平の世となった江戸時代では、人を斬ったことのない武士もたくさんいたようです。本作の主人公・登も、武家の息子で剣術の腕はたしかなのですが、実際には人を斬ったことがなく、しかも実家が無役の小普請組であるため、武士としての自覚があまりありません。

「自分は本当に武士なのか」と迷い続けている登が、ふとしたことから名刀「一竿子忠綱」を手に入れます。人を斬ることをさだめとした道具を身につけたことで、迷っていた登の心はさらに迷い、さまざまな事件を引き寄せることになります。

 しかし、登は、橋を渡って、相手を探す必要などなかったのだ。
 吾妻橋を渡ろうとして、袂にある番屋に目が行ったそのときだった。
 突然、心の臓が大きく鼓動を打ち、呼吸が荒くなって、胃が腹をせり上がった。
 このままでは、橋の上でもどしてしまう。
 登は躯を丸めて背中を返し、川端の並木に戻って柳の木に手をついた。
 大きく肩で息をしながら、自分の躯に何が起きたのかを探る。
 直ぐに答えは出た。
 まさか、とは思ったが、それしかありえない。
 とっくに終わったと信じていた躯の変調がぶり返したのだ。(文庫版 p.68-69)

一竿子忠綱を手に入れるまで、登は竹光を差していました。そのときには起こらなかった体調不良が、一竿子忠綱を差しているときには起こってしまっています。心も体も、武士であることを拒否しているかのようですね。

しかもこの部分、ちょっと独特な叙述となっています。一文ごとに改行されていて、いずれの一文も比較的短めです。この「一文ごとに改行」という手法を、本作ではここぞというときに使用しています。その「ここぞ」とは、緊張感の走る場面です。登が衝撃的な場面を目撃したり、剣を使うときなど、読んでるこちらがハラハラするような場面で使われています。

小説での文章は、「会話」と「地の文」の二つに分けることができます。「会話」は、カギカッコでくくられた台詞や、カッコやダーシ(―)などをつけたモノローグなどのことです。だれかが話しているような文章であるのが特徴ですね。一方で「地の文」は、「会話」以外の文を指します。登場人物の様子や気持ちを述べるのも、天気や風景の様子を述べるのも、時代背景などを説明的に述べるのも、すべて地の文です。それに加えて本作では、この「一文ごとに改行」という手法が、小説における第三の種類の文章になっています。

 立ち尽くしたまま佳絵の顔を凝視し、くっくと嗚咽を洩らすと、そのまま背中を返して、登に気づくこともなく歩み去った。
 直ぐに登も、枕元を発った。
 後ろを振り返らずに仁志の家を出て、竪川沿いの路をずんずんと往く。
 行く当てもないまま北辻橋を越え、四ツ目橋のところで左に折れた。
 登は分からなくなっていた。
 二人だけのことは、二人だけで大切にしなければならない。
 しかし、どう大切にすればよいのかが分からない。
 家並みから逃れるように、登は大股で歩き続ける。
 ただただ、歩き続ける。
 程なく押上村の畑地が広がって、空がすっと高い。
 収穫を待っているのは葉芋と夏蕪だろうか。その向こうには穂をぴんと蓄えた麦畑が一面を若緑色に染めていて、空からは雲雀の声が降ってくる。(文庫版 p.182-183)

この引用部分では、最初と最後にふつうの地の文があり、間に「一文ごとに改行」の手法が使われています。ふつうの地の文が、俯瞰的に風景や心情、しぐさなどを表している一方で、「一文ごとに改行」の部分では、グッと登場人物に迫った描写になっています。映画などの映像でいえば、ふつうの地の文が「引き」の映像で、「一文ごとに改行」がアップなどの「寄り」の映像です。しかも「一文ごとに改行」では、一文ごとに視点がパッパッと変わっているようなイメージを与えています。人物のまわりにいくつかカメラがあって、一文ごとにスイッチングで視点を切り替えているかのようです。小説でありながら、非常に映像的な表現をしています。

「一文ごとに改行」の部分では、登が五感で感じたことや、直接的な感情が語られています。その中で登は、武士としてのあり方や、友人や想い人とのことで悩み、ひたすら迷っています。しかし、やがて迷いがなくなる瞬間が訪れます。

 自分が駆け出したその瞬間、父母や姉の南割下水での暮らしはなくなる。
 もはや考えるべき時は過ぎていた。
 後は、武芸の士らしく、頭では考えず、躯に埋め込まれたものに処し方を任せるしかない。(文庫版 p.215-216)

 すっと、登は立った。
 立って一竿子忠綱を抜き、青眼から脇構えに移る。(文庫版 p.244)

この二つの引用部分は、いずれも終盤のものです。ネタバレを防ぐために前後の文を省略しているのはご容赦いただくとして、前述の引用部分と比べて、視点の切り替えの数が非常に少なくなっていることがわかります。これは、登が自分なりに腹を決め、迷いを振り払ったことを示すものでしょう。

悩んでいるときは、いろんな考えが浮かんでは消え、あちこちに散らばりがちになります。実際、登が悩んでいる場面では、「一文ごとに改行」の行数が多く、文庫本の見開きのほとんどが「一文ごとに改行」だったこともありました。しかし考えが定まると、ほかの余計なことに目が行かなくなるものです。そんな登の迷いの断ち切りを、「一文ごとに改行」の数を減らすことで表現しています。心境の変化は、文章の内容だけでなく、文章の形でも表現できるってことですね。

「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」という、フランスの哲学者・ボーボワールの有名な言葉があります。おそらく武士もそうなのでしょう。「自分は武士なのか」と悩んでいたときの登は、たしかに武士ではなかった。ですが、つらい経験を乗り越えたときに、武士になったのです。武士になるとは、一生背負うものができたこと――そんな結論への登の思いが、エンディングで「一文ごとに改行」によって語られています。しかも、行数は少なめです。それもまた、登が武士としての覚悟を決めた証といえそうです。


発売日(文庫版):2013年12月10日