時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

有吉佐和子『和宮様御留』(講談社文庫)

この小説、非常に静かなんです。だれもしゃべっていないとか、音ひとつしないとか、そういう世界ではなく、いろんな人が出入りしているにもかかわらずシーンとしているんです。

「宮さん、おひなって頂かされ」
 和宮の躰がものうげに柔らかく動き始める。ぽってりとした瞼が開くと糸のように細い目が、藤を認めた。片手を上げると藤はそれをお取りして宮を抱き起す、宮はとろとろとまどろんでいるのか、一隅に坐っているフキを見ても目に入らないらしい。藤はフキを起して着替えさせたのと全く同じ手順で、しかし較べものにならないほど鄭重に宮の御召替えをしている。(文庫新装版 p.61)

これは和宮の部屋での様子です。和宮といえば、徳川幕府十四代将軍・家茂の正室だった方で(この場面ではまだ未婚ですが)、当時の孝明天皇の異母妹です。ここでは和宮のほかに、乳母の藤と本作の主人公・フキがいて、和宮と藤はそこそこ動いているんですが、衣擦れの音もせず、呼吸の漏れさえ聞こえない、静まり返った世界にいるように感じられます。

 藤が和宮の気をひきたてるように明るい声で言い、丁寧にお股を拭し上げてから、フキを省みて、用を足すように科した。フキはおまるを部屋の片隅へ持って行って、二人に背を向けて用を足した。和宮は涙を流した後で下からお出だしになる分は少なかったが、フキのは勢いよく奔り出た。藤が、宮をお拭きした布を持って、フキの股を拭いた。少々乱暴で、痛く、それ以上にフキは毎度ながら恥しく思う。(文庫新装版 p.79)

そしてこれは、和宮とフキが用を足す場面です。「お公家さんってそんなふうに用を足してたの!?」ということと、あまりにも淡々と静かに物事が進んでいることに驚かされます。「勢いよく奔り出た」というフキの尿の音だけがジャーッと響きわたっていそうなほど、あたりはシーンとしています。

本作で終始広がる「静かさ」には、理由があります。登場人物の感情があまり描かれていないからです。登場人物の感情には、読者の心も動かされることが多く、頭の中がざわついてしまうものです。本作では感情の表現が少なさゆえに、読者の頭の中が静かなままでいられて、それが作中の「静かさ」につながっていると思います。

そして、感情を描くにしても、台詞や大げさな表現は用いていません。人物の、今そこにある態度や仕草、パッと浮かんだ気持ちだけで、淡々と感情が構成されています。

 しかし輿の中にいるのはフキだけであり、納戸を出るとき藤の妹が指先を唇に当てて見せたのも、来る道で宮ご自身がフキの手を両手でしっかりお握りになっていたのも思い出すと、フキは脂汗で全身が濡れているのを感じた。ひょっとすると私は、宮のお身替りになるのと違うやろか。そう思いつくと、フキは躰が小刻みに震えてくる。(文庫新装版 p.190)

「ご機嫌よう」
 フキは言ってから、藤の妹の顔を見ると、微笑して肯いている。そうか、この調子で宮さんの真似をすていたらええのやな、とフキは思った。観行院が出て行き、藤の妹と二人きりになると、フキはほっと一息ついた。背骨が溶けてくるような気がする。(文庫新装版 p.193)

これらの引用は、自分が和宮の身代わりになり、江戸に輿入れさせられるのではないか、とうすうす気づき始めるフキの様子を描いた部分です。一つ目では脂汗や体の震えで、二つ目では「ほっと一息ついた」「背骨が溶けてくる」という表現だけで、フキの感情を表しています。過剰さは一切なし。美しさ優先のレトリックもなし。ひたすら「フキはこんなふうにしていました」という事実だけが刻まれます。

そして、本作の「静かさ」の理由のもうひとつ。「そして」「つまり」「しかし」などの接続詞が極端に省かれていることです。これは意図的なものでしょう。

文法の勉強のようになってしまいますが、接続詞について簡単に説明します。接続詞は名前のとおり、文と文、語と語などを接続するための言葉(詞)です。前述した代表的なものをはじめとして、接続詞にはいくつか種類があり、それぞれに意味があります。日本語をネイティブランゲージとしている私たちは、その意味を無意識に理解して文章を読んでいます。たとえば、「『そして』のあとには重要な話が来るので、しっかり読もう」とか、「『しかし』のあとには、前に書いていたことを否定する内容がくるはず」などの判断を、知らず知らずのうちにしているのです。

このように接続詞は、読み手が率先して文の流れを判断してくれるものであるため、書き手は「読み手にはこうやって読んでほしいな」という意志をもって、接続詞を使います。たとえば、「ここにりんごとぶどうとみかんがあるけど、みかんがあることを強調したいな」と思ったら、「ここにりんごとぶどうがある。そしてみかんもあるのだ」と、「そして」を使って書けばいいのです。

接続詞を使わないということは、そういった「書き手が、読み手の読み方をコントロールすること」をあえて手放しているということです。作者側が無理に盛り上げたり盛り下げたり、話を展開させたりしていないから、本作は静かなのです。しかしそれでは、読者の読み方次第で物語の流れが変わることも起こり得ますし、接続詞なしでは単調な文章の羅列になり、小説としての山場も作れなくなります。そこで本作では、ひたすら「事実」を積み重ねることで、盛り上がりなどの文章の流れを生み出しています。

 ふらふらしながら能登のさし出すおまるで用を足し、蒔絵の盥を使って上半身を拭い、別の盥で下半身を拭きあげる。毎朝のことでもう慣れていたが、水が冷たい。冬なのだ。寒くなると朝の化粧は苦行だった。白粉がどろりと肌に塗られるときの悍しさと滲みいる冷たさに、黙って耐えていなければならない。額に眉を描かれるときは、もっと薄気味が悪い。房楊子を使って鉄漿をつけるのも、寒くなったせいか近頃は痛いほど歯にしみる。化粧の間ずっと上半身はむき出したままで、首から背中まで、前は盛上った乳房の半ばぐらいまで白粉を塗る。(文庫新装版 p.358-359)

この引用部分では、接続詞は「が」「で」ぐらいでしょうか。これでは文章の流れをコントロールできませんので、ここでは化粧の方法とその感触という「事実」をひたすら畳みかけています。それだけで、化粧のつらさがはじめから終わりに向けてジワジワと高まり、読者が体を震わせたり、顔をしかめたりしてしまうほどになっているのです。

あえて接続詞を用いず、「事実」の積み重ねで文脈をつくる――こんな高度な叙述がなぜ可能だったかといえば、作者の有吉佐和子さんが才能あふれる作家さんだったというのもありますが、いちばんの理由は、恐ろしくなるほどに取材をされたからでしょう。いろんな人に取材をし、計り知れない量の資料を読み込んで、やっとのことで目の前に現れた世界を見ながら淡々と描く。そこには有吉さんの思いや感情などはひとつも存在しませんし、書かれてもいません。書かれているのは、目の前の世界の「事実」だけです。

もし「いい小説って何?」と訊かれたら、私は「作者のもつ世界の外にある事柄を描いたもの」と答えるようにしています。どんなに大作家だったとしても、自分の経験や知識だけを頼りに書いた小説は、作者の技量の範疇を超えられないちっぽけなものになります。しかしそこに、取材や資料といった「作者の外」にある情報を取り込むことで、作者のもつ世界観が外側へと広がり、自分の範疇など軽く超えられるほどになるからです。

「世界観の大きさ」というと、大風呂敷を広げたり、奇想天外な発想をしなければならないようなイメージがありますが、決してそうではありません。綿密な取材と膨大の資料を積み重ねた先に、やっと現れてくるものだと思います。有吉さんが本作の執筆中に見ていた「幕末の公家社会」という世界だって、おびただしい取材と資料の山の上でしか見られないものだったに違いない、と本作を読むと思えてくるのです。


発売日(文庫新装版):2014年4年15日