時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

中島久枝『ずんだと神様 一膳めし屋丸九(七) 』(ハルキ文庫)

前のエントリーにも書いたとおり、今月のハルキ文庫からは、似たような設定の時代小説が3冊刊行されています。そうなると、感想を書くにしても、「この3作品の違いはどこにあるんだろう?」という点を考えてしまいます。さらにこの3冊は、「女性が飯屋で働く」という、時代小説の売れ線オブ売れ線の設定であるため、多くの類似作品が存在します。そのため、それらとも差異を感じられるかどうかが、本作の感想を書くうえでのポイントになるんじゃないかなぁと思ってはいます。

……と、前置きが長くなりました。本作は中島久枝さんの作品です。中島さんといえば、フードライターをやっていらっしゃることもあり、料理や食材、調理のことをていねいに書かれることに定評のある作家さんです。本作でもそのあたりが、類似作品との差異になっていると思います。調理の場面などは、「これは中島さんが実際に料理を作ってから書いているんだろうな」と思うほどでした。そして実際、本作の巻末にはレシピも載っています。

ストーリーや文章についても、とくに問題なく、最初から最後までスルスル読めてしまいます。スルスル読めるのは、ストーリーが矛盾も淀みもなく進むということであり、文章の表現にも大きな問題がないということです。ならそれでいいじゃないか、という気にもなりますが、スルスル読めたあとに、「……で、これってどんな小説だったっけ?」と思ってしまいました。

いや、ストーリーの内容は、ある程度頭には残っているのです。主人公・お高が、さまざまな料理でもてなしをしている様子も、ちゃんと記憶にはあります。ただ、お高の心の動きがあまり読み取れなかったのです。それは私の読解力不足もあるでしょうが、お高が落語の噺にもあまり笑えない、お堅い人物であることもあるでしょう。そして本作が、完全客観に近い視点で書かれているのも、大きな原因であるように思えます。

「こんばんは。調子はどうだい」
 作太郎は幸吉に声をかけた。
「あ、作太郎さん。いつもお世話になって……おります」
 幸吉の声が尻つぼみになった。困った顔をしている。(p.82)

この引用部分の地の文にある「声をかけた」「尻つぼみになった」「困った顔をしている」は、いずれも「見たまま」「聞いたまま」の様子です。これは完全客観であるためでしょう。もし、主人公のお高の視点ならば、お高が見聞きした様子として描くはずですから。また、「(幸吉が)困った顔をしている」とありますが、本当に幸吉が困っていたかどうかは、幸吉本人にしかわかりませんから、これも完全客観として書かれている証拠かな、とは思います。

「ちょいとさぁ、頼みたいことがあるんだよぉ」
 政次が甘えた声を出した。
「いやよ」
 お高は即座に断った。出鼻をくじかれて、政次は頬をふくらませた。(p.92)

「今日の冷奴は大きいところがいいねぇ。大好物なんだよ」
 徳兵衛が目を細める。
「あれ、今晩は葛まんじゅうかい。うれしいねぇ」
 お蔦も顔をほころばせる。
 三人は盃を交わしながら、いつものように楽しそうにおしゃべりをしている。(p.104)

この二つの引用部分にある地の文も、すべてが「見たまま」「聞いたまま」の客観的な表現になっています。完全客観ですから、当たり前といえば当たり前なのですが、どうも文章に面白さがない気がします。「エンタメ小説に文章そのものの面白さを求めるな」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、完全客観で書かれているならば、どうしても文章そのものの面白さは必要になります。


完全客観は、世界じゅうの古典作品に多く見られ、日本では「文豪」と呼ばれる作家の作品に数多く見受けられます。完全客観は神視点であるため、神様が人間たちの様子を「あー、また何かやっとるわ」と眺めているように描くのが特徴です。そのため、シェイクスピアの戯曲のように、さまざまな人物の様子を多角的に表現する必要のある作品に合っているといえます。そして完全客観の小説では、地の文のよさが必要になります。客観的に書かざるを得ない地の文に、どれだけその作者独自の味わいを入れられるかが、完全客観の作品の面白さを左右するのです。

さて、本作では、ストーリーは主人公を中心にした、一般的な人情ものです。主人公以外の登場人物をクローズアップする必要もなく、多くの登場人物が多重的に絡む物語でもないため、完全客観で書かれる必要性をあまり感じません。そして、完全客観で書くことによって、登場人物の心情の動きがあまり描かれず、物語の起伏がなくなってしまっている気がします。

また、地の文にもあまり個性がありません。私は読書をする際、面白い部分や「この表現いいな」と思った部分にはふせんをつけていくのですが、本作ではふせんをひとつも付けませんでした。全編にわたって、ありきたりな表現が多かったのです。たとえば、先ほどの二つの引用にあった「甘えた声」「目を細める」「顔をほころばせる」は、代表的な「ありがち表現」です。どんな作家でも書ける表現、とでもいいましょうか。こういった常套句ともいえる文言が多用されているせいで、良く言えばクセのない、悪く言えば面白さのない文章表現になっています。

常套句は、ちょっとした内容を、短い言葉でだれにでもわかりやすく伝えられる、とても便利なものです。そのため、どうしても使いたくなってしまうんですよね。なので、「常套句を一切使うな!」とまでは言いませんが、お金をもらって文章を書く人は、常套句はなるべく避け、自分なりの表現を突き詰めるのが大切だと思います。そこがプロフェッショナルとアマチュアの境目なんじゃないかな、と。

ちなみに、昨年ベストセラーになったある小説の書き出しは、「うららかな春の日」という、ド定番の常套句でした。その「うららか」がどんのようなものかを説明するのが、プロの小説家であり、プロが書いた文章だと思うんですがね。いいんですかね、「うららか」で。

本作については、作者さんは実績のある方ですし、読者層に合わせた読みやすさを優先して、あえて常套句を多用しているのかもしれません。商業小説は「売れてナンボ」の部分がありますから、それはそれでまったく問題ないです。ですが、完全客観で書くならば、できれば地の文にはこだわってほしいし、そこで人物の心情に深く迫っていくことだって可能なんじゃないかな、とは思っています。


発売日:2022年4月15日

坂井希久子『萩の餅 花暦 居酒屋ぜんや』(ハルキ文庫)

今月、ハルキ文庫から「女性が飯屋で働くストーリー」の時代小説が、本作を含めて3冊刊行されました。多くの書籍購入が見込まれるゴールデンウイーク前の発売であることを考えても、おそらくこういった話が「売れ線」なのでしょう。大ヒットした『みをつくし料理帖』シリーズを出しているレーベルですしね。

さて、本作です。同じレーベルから同じ日に発売された「女性が飯屋で働くストーリー」の作品はもちろん、『みをつくし料理帖』のヒット以来、数多く刊行されている類似作品とも、どうしても比較したくなってしまいます。そして、ほかの作品との違いをどのように出すかが、作品の面白さを決めるような気もします。

そこはしっかりした物語を描かれる坂井希久子さんだけあって、本作では類似作品との差別化は十分にされていました。その差異は、短い文章で物事の本質に迫っているところです。これは坂井さんの技というか、美意識というか、「読者がどんなふうに小説を読むか」をわかったうえでの徹底ぶりといえると思います。

 庭園に回ればさらに、浮世離れした景色が広がっていた。二つの池とそれを結ぶ小川には清らかな水がたたえられ、周囲の築山には秋の草花が配されている。なにより萩が数多く植えられて、花がこぼれた地面までが紫紅色に染まっていた。(p.70)

まずは情景描写です。エンタメ性の強い時代小説では、情景描写が貧弱だったり、省かれがちになります。それは作者さんの描写能力が低い可能性もありますが、読者が情景描写よりもストーリーの進行を重視しているから、必然的にそうなっていることが多いでしょう。せっかく情景描写をしても、読み飛ばされてしまうとかね。ならば、情景描写はどうしても最小限、もしくはチラッと書く程度になってしまっても仕方がない面があります。

しかしそれでは、どうも小説っぽくないのです。小説において、情景描写は作者さんの腕の見せどころだったりしますから。作風にあった表現をビシーッと書ける作家さんにハズレなしですから! だからといって、情景をひたすらダラダラと書いてあっては、読者の読む進行を妨げてしまいます。そうなると、この引用部分のように、短いながらも風景が見え、色や香りも伝わるような情景描写を入れるのがベストでしょう。引用部分である第二話の「花より団子」では、萩の花が話の鍵になっているので、萩の様子を描く必要があったとは思います。そこで、無駄な描写を極力削ぎ、読者の視点に合った描写をしているのは、本当にお見事だと思います。

「おかやちゃんは、自分の言動がお花ちゃんを傷つけたってことを知らないんじゃないかな」
 それは、そうだろう。だって言っていないのだから。
「だったら、謝りようがないよね。ちゃんと伝えないと、人は察してくれないよ」
 そのとおりだった。おかやは怒りをまっすぐお花にぶつけてきたのに、お花は胸に秘めたまま意趣返しという形を取った。卑怯なのは、自分のほうだ。
「ごめんなさい」
「謝る相手は、私じゃないよ」
 只次郎が、ゆっくりと首を振る。(p.65)

これは主人公のお花が、友人のおかやとあることで喧嘩をしたことについて、只次郎がやんわりとアドバイスをしている場面です。クドクドと説教をせずとも、「ちゃんと伝えないと、人は察してくれないよ」という一文だけで、お花はもちろん、だれの心にも響くアドバイスになっています。さらに「ごめんなさい」「謝る相手は、私じゃないよ」の呼応がすばらしい。これだけで、お花が素直であることがわかり、そして只次郎が最高にかっこよく見えます。たった二行でですよ。すごい。

「そうだねアンタは、母親には苦労するね」
 お銀は湯呑を置き、ついに両目を瞑った。
「夫婦のこと、子のことは、べつに今考えなくたっていい。時がくれば、なるようになってゆく。アンタはただ、自分が大事だと思うほうを選び取っていけばいい」(p.175)

お銀という謎の婆さんが、お花に話している場面です。乞食に近いような雰囲気のお銀が、これだけの深いことを言うのが、面白いですよね。「お銀、只者じゃねぇな」と読者に気づかせてくれる、憎い演出です。しかも言っている内容は、短いながらも真実をグイッと突いています。そしてお花にとっては、大きな救いになっています。

本作のような「女性が飯屋で働くストーリー」では、どうしても料理や調理の過程が物語の中心になるものです。しかしその「定番」に準じていては、類似作品との差別化はできません。そこで、「人間の本質を描く」という人情ものの軸をど真ん中にしっかりと立てて、なおかつブレさせないのが、本作の素晴らしいところです。しかも、本質を突く言葉を口にするのが、偉い人やしっかりした人ではなく、「パッとしない人々」なんです。それがかえって説得力を増させてるといいましょうか。そういう人たちこそ、この世の真理を見抜いているのだとわかることが、まさに「人間の本質を描く」ということじゃないかなぁと思います。


発売日:2022年4月15日

佐々木裕一『新・浪人若さま 新見左近【十】 嗣縁の禍 』(双葉文庫)

映画『レディ・プレイヤー1』(2018年公開)を観たとき、「脚本家すげー!」と驚いたのを覚えています。おそらく配給元や製作チームから、「トレンドのバーチャルな感じとオンラインゲーム、それにバトルも絶対に必要。謎解き要素もあるといいな。ヒロインはかわいいけど一筋縄ではいかない感じで、悪役は悪いながらも魅力的に、それに多様性も考慮して白人だけじゃなくいろんな国籍の人を出してね。あと、恋愛要素もよろしく」みたいな依頼があったんじゃないかな、と思えるような内容でしたので。そんな無理難題の好例のような要望にすべて応えるがごとく「ぜんぶ盛り」にし、娯楽超大作の物語にしたのですから、すごいとしか言いようがないです。

そして本作も、そんな「ぜんぶ盛り」の作品です。主人公・左近は、次期将軍として江戸城の西ノ丸に住みながらも、浪人の身にやつし、市井で起こるさまざまな出来事で大活躍をします。脇役には魅力的な間者たちと、理解がありながらも厳しい側近、さらには美しくも凛々しい愛する人・お琴もいます。そして現将軍である綱吉とそのまわりの人々の動向も面白い。天丼と牛丼と親子丼の上に、海鮮丼までのっけているような話です。本作はシリーズ10作目ですが、さらに盛ろうとしているんじゃないでしょうか。

こう書くと、何だかまとまりのない話のようですが、まとまりも面白さも兼ね備えた娯楽作になっています。それは、ログラインがしっかりしているからでしょう。ログラインとは、ストーリーを「だれが」「どんな状況で」「何をする」を含む一行(一文)で言い表したもので、ストーリーの軸になるものです。本作は、どんなにたくさんの要素を盛り込もうとも、「将軍の後継者である左近が」「浪人に身をやつして」「いろんな事件を解決する」というログラインがあります。

最初に紹介した『レディ・プレイヤー1』も、あれだけ要素がありながらも、ログラインは「さえない主人公のガンターが」「VR世界で」「敵と戦って謎を解く」話です。映画が進むごとにどんどん話が膨らもうとも、この一本通った設定からは一切ブレていません。それは本作も同様です。ドカンと太いログラインがあって、そこに枝葉としていろんな要素がくっついています。だからどんな要素がくっつこうとも、大筋は揺るがず、ストーリーがとっ散らかることはありません。そして、ログラインが明確に一本立ちしている作品は、読者(観客)もストーリーに迷うことなく味わえるのですから、面白くないはずかありません。

「真之介殿、かしこまった顔をしていかがされた。葛西屋の娘御についての相談かの」
 思わぬ不意打ちに、吾川は目を白黒させた。
「和尚様、どうしてご存じなのです」
「ふっふっふ、檀家のことは、座しておっても耳に入るものじゃ。母上の説得を頼みにまいったのか」
「正直に申しますと、昨日までは和尚様を頼るつもりでした」
 恵啓は目を細めた。
「ほう、今日は違うとな」
 吾川は居住まいを正した。
「父がお預けしている物がございましたら、お返しいただきとうございます」
 頭を下げて願う吾川を見ている恵啓が、大きく頷いた。
「やっと、まいられたか」(p.38)

これは第一話での会話部分です。会話場面では台詞の合間に「〇〇が言った」「〇〇が話した」といった地の文が挟まれることが多く、「文章で金をとってんのに、そんな無駄な一行を挟むな!」と怒鳴りたくなることが度々あるのですが、本作ではそういった表現はかなり少ないです。この引用部分でも、台詞の合間に挟まれているのは人物の態度もしくは様子です。こうでなくっちゃ。ただ、「吾川は目を白黒させた」なんていう陳腐な表現がある(しかも頻繁に出てくる)のが残念といえば残念ですが、これは新人賞の応募作でもなければ純文学作品でもないので、目を瞑ってもいいかな、とは思います。

 剣崎は、呆然として行列を見送っていたが、はっと我に返り、側近に告げる。
「ただちに、明澄に毒消しを飲ませろ。奴が死ねば、わしが西ノ丸様に殺される。早う行け!」
 怒鳴った剣崎は、血圧が上がったのか、泡を吹いて倒れた。
 大騒ぎする家来たちを物陰から見ていた小五郎は、かえでと顔を見合わせて笑った。(p.146)

「江戸時代に血圧なんて概念があったのか?」と思いましたが、まぁ仕方ないですね。これは新人賞の応募作でもなければ純文学作品でもないので(略)。

……と、いろいろつっこみながらも、それらに目を瞑ろうとしているのは、本作が(おそらく)年配の方をターゲットにしたエンタメ作品で、読みやすさを優先している可能性が高いからです。そして、ストーリーが圧倒的に面白いからです。そりゃウケる要素がてんこ盛りなんだから、面白くって当たり前だろうと思われるかもしれませんが、面白く書こうとして面白く仕上げるというのは、そう簡単なことではありません。「面白い」というのは、とても個人的な思いですから、人によって面白さは異なるうえに、作者と読者が「面白い」と思う基準だって異なる可能性のほうが高いのです。

それでも、多くの人が「面白い」と思える作品は存在します。そういった作品は、物語の基本をがっちり押さえていることが多いです。ログラインがしっかりしていて、主人公が魅力的で己の願いに向かってひたすら邁進し、脇役もすてきで、みんなが愛したくなるヒロインがいる。そんな直球勝負かつ王道の物語が、多くの人の「面白い」を引き出すのだと思います。本作でも、ログラインのよさはもちろん、主人公の魅力や脇役の良さといった普遍的な王道オブ王道の定石を押さえているので、多くの人が「面白い」と思えるものに仕上がっています。そして、ヒロインであるお琴の描き方も絶妙です。

 左近はお琴の髪を見た。かえでが結ってくれたという武家の髪型がよく似合い、美しさは増しているのだが、三島屋で見せていた表情とは、どこか違う。
「おれにために、すまない」
「あやまらないでください。左近様のお命のほうが、わたしにとっては何よりも大切ですから、望んで上がったのです。これからは、共に暮らしましょう」
 目に涙を浮かべて言うお琴を、左近は抱き寄せた。
 このうえない喜びだが、手をつけられず、見ようともしない小間物が目に入った左近は、楽しそうに働いていたお琴の姿が脳裏に浮かんだ。きっと無理をさせているに違いないと思い、胸が締めつけられた。(p.236)

最近の時代小説では、働く女性や、恋や結婚よりも仕事を選ぶ女性が出てくることが多いのですが、どうもそれが「私は働く!」みたいな一本調子な雰囲気の女性が多く、違和感を覚えることが少なくありません。しかし本作のお琴は、心の奥では小間物屋を経営し続けたいと思いながらも、愛する人(左近)のために、西ノ丸へ上がる決意をします。そんなお琴の健気さにキュンとしますし、彼女の本心を見抜き、お琴とともに暮らせるうれしさよりも、彼女を小間物屋に戻すことを選択する左近もかっこいい。そんな左近やお琴の揺れ動く気持ちを、ウジウジ&モゾモソするネガティブな方向ではなく、人物の魅力としてカラッと描けているのも、本作の魅力のひとつだと思います。


発売日:2022年4月14日

芝村凉也『北の御番所 反骨日録【四】狐祝言 』(双葉文庫)

正直な感想を言うと、「読みにくいな」と思いました。だからといって、文章はグダグダではありません。無駄なくスッキリ書かれていますし、ストーリーだって面白い。裄沢の媚びない感じも、時代小説の主人公としては斬新で面白いのですが、どうも読みにくさを感じてしまう。不思議な感じです。

 寺本の父は、形の上では自ら町奉行所与力の職を辞したことになってはいるが、実際には当時の老中首座が推し進めていた改革の波に乗り一気に出世を果たそうとして、奉行所内の動静を見極められずに周囲から反感を買い、進退極まって致仕(退職)したのだった。(p.48)

たとえば、第一話のこの一文です。もう一度言いますが、「一文」です。長い。こういった一文の長さという「物理的」なことが、読みにくさの一因になっているとは思います。

とりあえず読みにくいながらも読んでみると、文の意味はわかるんですよね。寺本という人のお父さんが、出世しようとがんばっていたけれど、まわりから反感を買って退職するに至った、ということです。しかしこの文には、意味以上のものがない気がします。これが本作の「読みにくさ」の大きな原因ではないでしょうか。

この文を読んでいると、「寺本の父」のイメージが湧かないのです。「仲間からは『小賢しい奴』と言われていた」とか「出世をひたすら希っていた」とか、簡単に人となりを説明する文言があれば、「寺本の父」像がある程度パッと浮かぶのですがね。そして「奉行所内の動静を見極められずに周囲から反感を買い」とコンパクトにまとめられてはいるものの、「『奉行所内の動静』とはどんなものか」「どういう『反感』を買ったのか」といったことがほとんど不明で、「寺本の父」にどういう感情を抱いていいのかがわからなくなります。現在のこの「一文」のままだと、事実だけを羅列している調書を読まされているかのようです。

「謝罪はよい。先を続けられよ」
 深く頭を下げた裄沢を、屋敷の主は咎めることなく流したが、その声は厳めしく響いた。いい加減なもの言いが続けば、厳しい叱責が飛んでくるだろう。
 顔を上げた裄沢は恐縮する様子もなく、それまでと同じ調子で話し続ける。(p.120)

これは第二話で、裄沢が皀莢という「お偉いさん」に、あることを告げに行った場面の一部です。「いい加減なもの言いが続けば、厳しい叱責が飛んでくるだろう」の、「だろう」の主語が書かれていないなぁ、と思ったときに、ふと気づきました。この小説、三人称多元視点かつ完全客観的に書かれているんじゃないか、と。気づくの遅い。

完全客観は、一般的に「神視点」と言われているものです。書き方については、「完全客観なんだから、登場人物の心情を書くのはNG」という人もいれば、「神様は何でもお見通しなんだから、全員の心情を書いてもOK」と真逆の定義を口にする人もいます。まぁ「客観」なのですから、神様のように俯瞰で見て、わかることだけを書くということなんでしょう。

そうなると、「いい加減なもの言いが続けば、厳しい叱責が飛んでくるだろう」の、「だろう」の主語は、神様(作者)ということになります。そして次の「顔を上げた裄沢は恐縮する様子もなく、それまでと同じ調子で話し続ける」も、神様(作者)から見ているから、「そんな脅しまがいの態度には惑わされないぞ」といった裄沢の心情には触れずに、客観的に述べられているわけですね。

このように、完全客観で述べられた小説は事実をありのままに描き、心情描写は少なくなりがちです。そのため、登場人物の気持ちがわかりにくくなることがあります。

 深元が御用部屋に入ってすぐに倉島のところへ来たことといい、空きを確かめることなく真っ直ぐこの部屋へ向かったことといい、用部屋手附同心のうちの誰かが深元にご注進に走り、その指示を受けてこの部屋の空きを確認したのだと思われた。(p.266-267)

これは第三話で、深元が倉島に「話がある」と呼び出された場面にある一文です。もう一度言います。「一文」です。またもや長い。長いですが、それについてはひとまず置いておきます。

この文では、述語である「思われた」の主語が書かれていません。完全客観なので、もちろんここの主語も神様(作者)ということになりそうなんですが、ここはどう考えても倉島です。ここよりも前の部分で、倉島が深元に嫌々ついていく描写がありますから。それに、この一文で伝えたいことは、深元に呼び出された倉島の疑心暗鬼の気持ちのはずなので、やはり倉島が主語ということになるでしょう。

しかしその倉島の気持ちが、ここでは読み取りにくいのです。心情を明確に示せない完全客観では、「幸せなら態度で示そうよ」ではないですけど、せめて態度や表情などを描写しないと、心情がわかりにくくなります。ここでいえば、最初に短く「倉島は思わず眉をひそめた」などと、倉島の気持ちを表情で示しておけば、「おいおい。突然呼び出したように見せて、ずいぶんと準備周到だな」という、倉島の反発と不安の気持ちを前面に出せるはずです。この文の伝えたいところが明確になるはずです。

おそらく、こういった心情表現の代わりになる、表情や態度の表現が少ないことが、読みにくさの原因というか、読んでいるのに人物の様子が頭に入ってこない状況になっているのではないかなぁと思います。あと、やはり一文が長い部分があるのもネックですよね。「ここ、いくつかの文章に区切りませんか」とか、編集さんはアドバイスしなかったのかなぁ。

また、本作は、武家社会の表と裏を描いた作品です。表では畏まっていても、じつは裏では……というのが、こういった物語の展開です。本作では、堅苦しい武家社会の「表」の部分がしっかり描かれています。それはおそらく、完全客観的な書き方による効果でしょう。「表」の部分を、そのまま余すことなく描いているのですから。一方で、「裏」については少々不足感があります。「裏」は、人間でいえば本音の部分ですから、登場人物の心情に迫らなくてはなりません。ですが、完全客観的に書かれている本作では、心情描写が極力抑えられているので、登場人物の心の奥へとグッと入っていけていないように思えます。

「どんな視点で小説を書くか」は、作者さんの書きやすさで選ぶべきところではありますが、小説で描きたいテーマや設定に合っているかどうかでも選ぶべきなのかもしれませんね。勉強になりました。


発売日:2022年4月14日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖〈十八〉まだら雪 』(双葉文庫)

本作は人気作家・坂岡真さんの、人気シリーズの18作目であり最終作です。以前、『鬼役』シリーズの感想でも書きましたが、坂岡さんは、時代小説を通して「エンタメ小説はこう書くのだよ」というお手本を示してくれる作家さんです。

キャラの立て方だとかストーリーのつくり方だとか、「面白い」と思える要素の散りばめ方とか、すべてにおいて「プロの技」を感じます。そういうレベルの作品を書ける作家さんは、そういませんから。本当にすごいです。すごいのですが、ネタや設定がこれまで読んだことのないものだとか、びっくりするような世界観が描かれているかといったら、そうではありません。失礼ながら、わりと「ありきたり」なネタや設定であることが多いです。

本作だって、一言で言ってしまえば「長屋人情もの」です。主人公の三左衛門を中心とした、長屋およびその近辺にすむ人々が、いろいろな事件や出来事に巻き込まれていきます。ありきたりでしょう?「そんなの5億回読んだ」とか、「テンプレ乙」とか、「親の顔より見たストーリー」なんてうっかり思ってしまいそうですが、それでも「面白い!」と唸りたくなる物語に仕立てていくのが、本作というか坂岡さんのすごいところです。

では「ありきたり」な小説の中で、何が「坂岡色」といえるかというと、登場人物の動きです。三左衛門をはじめとして、登場人物がとにかく自分の意志で動き、さまざまな出来事や事件に出会います。そして、その行動に至るための動機づけが、ものすごく自然なのです。

 三左衛門は禄無しの浪人者、一見すると頼りないようだが、じつは小太刀を使う剣客で、もともとは一藩の馬廻り役までつとめた立派な侍なのだと、おまつからは聞かされていた。
 そのせいか、おすずには武家娘にも似た気概がある。
 それだけ貧乏でも我慢できるし、贅沢は口にしない。
 困っているひとがあれば、身を捨ててでも助けたいとおもう。
 それは侠気とも言うべき気質で、おまつから受け継いだものでもあった。(新装版 p.122)

これは、第二話の「おすずの恋」で、三左衛門の娘・おすずの心意気を語っている部分です。短い文章の中で、おすずが一般的な娘よりもしっかりしていて、何事にも勇気をもって立ち向かいそうなタイプであることがわかります。

「やめて」
 おすずは、腰に縋りついた。
「何だ、てめえ」
 腕を掴まれ、地べたに振りおとされる。
 それでもおすずは這いつくばり、捨松を背中で庇った。
「おやめ」
 血走った目を剥き、音次を睨みつける。
「捨松はね、まじめに働いているんだ。あんたみたいな穀潰しとはちがうんだよ。これ以上、弱い者いじめをつづけるなら、お上に訴えるからね」(新装版 p.129-130)

そして、先ほどの引用部分でのおすずの心意気が、具体的な行動として述べられています。母親の交際相手・音次にいじめられている捨松を、身を挺して助けています。登場人物の性格や心情を行動や態度で見せるというのは、かなり大切なんですが、「○○は××な性格だった」みたいな説明だけで終わっている小説がけっこう多いんですよね。このあたりがしっかり書かれている小説に外れナシです。基本を押さえ、基本を省かないという、坂岡さんの徹底ぶりが窺えます。

「そこに囮を差しだせば、刀を抜くにちがいねえ。だが」
 と、半四郎は眉間に皺を寄せる。
「こいつは危ねえ橋だ。いってえ、誰を囮にするか」
(中略)
 すかざす、おすずが膝を進めた。
「わたしにやらせてください」
 半四郎は、驚いた顔で首を振る。
「駄目だ。おめえにやらせるわけにゃいかねえ」
「いいえ。やらせてください。わたしは、顔をみられています。(後略)」(新装版 p.182)

そしてこれは、ある人斬りを捕まえるために、おすずが自らおとり役を買って出る場面です。うら若い娘がおとりになるなど、かなり突拍子もないことです。しかし、おすずの性格が行動によって十分に語られているので、「さもありなん」と納得して読むことができます。「とにかく行動!」「わけもなく元気!」みたいな理由のないことではなく、おすずがどういう人間かを際立たせたうえで、行動へと導いているのです。しかも、おすずの行動に触発されるように、父である三左衛門の行動までも加わり、物語の進行が加速していきます。そして最後には、血のつながらない親子であるおすずと三左衛門に、血縁以上のつながりを感じられるという、最終回にふさわしい雰囲気を感じることができます。

ただ、本作は短編の連作ものということもあり、各話で少々強引な展開もあったりします。第一話の「折り鶴」で、三左衛門が沖本と出会ったあとに、すぐに迷子になった沖本の娘に出くわしたり、とかね。しかしその強引な部分を、起承転結でいえば「起」または「承」に持ってきています。無理矢理感が物語の最大の山場となる「転」にあると、読者は「それはないわ!」とか「意味わかんね」と感じてしまいますからね。それは徹底的に避けられているようなイメージです。なので、坂岡さんは「転」の内容を先に設定したうえで、まわりのストーリーを組み立てているのかもしれないな、と思いましたし、エンタメ小説の巧者ともいえる作家さんたちは、だいたいがそういう方法で物語を組み立てているんだよなぁ、と今さら再認識しました。

そういえば先日Twitterで、「マンガ新人賞の落選作には『ありがち』なストーリーが多い」といった趣旨のツイートが話題になっていましたね。漫画だけでなく小説の新人賞でも、類型といえる応募作が多いのは確かでしょう。じつは「ありがち」ネタは、みんなが面白いと思えるからこそ、多くの人がこぞって書いて(描いて)「ありがち」に至ったのだと思うんですよね。ですから、面白い作品を書こう(描こう)と思えば思うほど、「ありがち」で「テンプレ」みたいなネタになってしまうとは思います。なので、多くの人が「ありがち」ネタに走ってしまうのは仕方がないことといえます。

では、「ありがち」ネタの何が問題かといえば、「ありがち」ネタを使った応募作で、「面白い!」と思えるものがそんなにないということでしょう。もしくは、既出の「ありがち」作品の劣化コピーになっているものが多いのです。そういう点から考えても、「ありがち」なネタを書く(描く)ならば、自分の観点から見直して工夫をし、最初から最後まで徹底して面白く書く(描く)ことに専念するしかないのでしょうね。そして、本作はそんな「ありがち」ネタを、「ありがち」なままで徹底的に面白くしようとしている心意気が見える作品だと思います。


発売日:2022年4月12日

進藤玄洋『鬼哭の剣』(ハヤカワ時代ミステリ文庫)

読み終わった瞬間、「惜しい!」と叫びました。本当に惜しいんです。あと一歩で傑作になりそうな予感がビンビンする作品ですから。

本作は、寛文9年(1669)にアイヌの惣乙名・シャクシャインが謀殺されたことから始まる、ミステリーであり、復讐劇であり、友情物語でもあります。主人公は二人。津軽藩藩主の嗣子・信重と、日本橋の商家「越前屋」の息子・充右衛門です。この二人が唯一無二の友人となることが、物語の歯車となり、悲劇のはじまりにもなるという、面白い要素がつまった物語です。

しかし、読み始めから少しだけ不安はありました。漫画『ゴールデンカムイ』が大人気のまま結末を迎えようとしている現在、アイヌについて書くのはトレンドといえますか、「下手なことを書くと、『ゴールデンカムイ』の読者からつっこみを受けるんじゃないか」とか、「アイヌはわりとデリケートなテーマだぞ」と、過保護な保護者のごとく心配になったのです。

「おい、お主、名をなんと申す」
 信重は、若旦那風の男に声を掛けた。
「これは、出羽守様でござりまするか。私は、越前屋充右衛門と申します」
「越前屋? 商人か」
「左様でございます」
「剣術は、どこで習った?」
「剣術でござりまするか? 私は商人でござりまする。そのようなものは……」
「なにをとぼけておる。其方の技、しかと見たぞ。俺と同じ一刀流だ。相手の起こりを見抜いたは、見事だった」
 『起こり』とは、相手が動こうとする直前の動作であった。
 男は、苦笑した。
「さすがは出羽守様。よく見抜かれましたな」
「俺と一緒に来い! 今日は飲もうぞ! お主と夜通し剣術談義をしたいものだ」(p.31)

藩主である父に疎まれている信重が、友となる充右衛門と出会った場面です。剣術が好きで、剣術で身を立てたいとまで思っている信重が、充右衛門が自分と同じ流派の剣術使いだと知り、無邪気によろこんでいます。とてもいい雰囲気です。前半までは、この二人が友情を深めていくところや、いくつかの事件の不穏さ、そして充右衛門と吉原の振袖新造・初音の関係など、グッとくる場面が多く、「これは期待できる」と思っていたのですが、後半に充右衛門が蝦夷地に渡ってからは、「こりゃアカン」となりました。

「ある者が私の顔が祖父に似ていると」
「ああ、似ておるとも。瓜二つだ。(後略)」
 その言葉に反応したかのように、チャシの外にいた者たちが一人、二人と中に入って来て、充右衛門を取り囲んだ。(p.292)

これは充右衛門が蝦夷地に渡り、アイヌの人々のもとへ行ったときの様子です。ネタバレを避けるためにくわしくは書きませんが、充右衛門が「そういう血筋」であり、「ある人」と瓜二つだったということは、顔のつくりや毛深さなどに特徴があったはずです。江戸の人々とは、かなり違う容貌だったはずです。

なのに江戸では、事実を知る伝兵衛以外は、彼のビジュアルについてだれも言及しません。かなり仲よくしていた信重だって、充右衛門の容姿については台詞はもちろんモノローグでも語っていません。充右衛門に思いを寄せる初音に、「若旦那の太い眉、わっちは好きでありんす」ぐらいのことを言わせてもいいのにねぇ。充右衛門の血筋の秘密は、伝兵衛や松前八兵衛の言葉からチラチラと「におわせ」はあるのですが、それでもビジュアルを度外視とは、北海道出身の私からすると「そりゃ反則でしょう」という気持ちです。

また、充右衛門が蝦夷地でどんなことをしていたのかは、ほとんど描かれていません。江戸に戻るまで、蝦夷地でアイヌたちとどのように暮らしていたのかが一切わからないのです。

 充右衛門は上空を見上げると、降り注ぐ雨粒を顔で受けた。容赦なく濡らし続ける雨を抗うこともなく、ただ全身で受け止めていた。

「天の神(カムイ)よ。地の神(カムイ)よ! 私(ク)に力を与え給え。(後略)」(p.331)

ネタバレ回避のために一部を略しましたが、蝦夷地からの帰還後、充右衛門はこれだけのアイヌ語を用いた祈りの言葉を捧げるほどになっています。

この言葉は、充右衛門の怒りや復讐の気持ちから生まれたものでしょう。そして最終的な行動に至るには、蝦夷地の厳しい自然環境と、アイヌとの生活で醸し出されたものが関わっていないはずはありません。ならばやはり、本作の世界観の一部を担う蝦夷地での様子を描くべきだったと思います。そういう世界観の欠如によって、おだやかだった充右衛門がいきなり豹変したかのようにも思えるのですから。

また、蝦夷地での充右衛門の詳細を書くかどうかは、本作を傑作にまで持ち上げるかどうかの試金石だった気がします。それが冒頭で書いた「惜しい!」ということです。そしてそれは、「ちゃんと取材して書こうよ」という嘆きでもあります。後半でアイヌの人々との生活を描き、世界観を深められれば、充右衛門のそれからの言動を、善悪を超えたところで、強い思いを込めて読み進めることができたんじゃないかなぁ、と。

小説にはストーリーやキャラ設定、世界観など、いろいろな要素を含む複合体です。その中でも、世界観がしっかりしていることは大きな魅力になります。どんなに荒唐無稽な設定であっても、世界観が十分に描かれていれば、読者はドボンとその中に浸かることができます。そして、提示された世界で抵抗なく漂い、さまざまな出来事や事件に出会うことができます。それどころか、読者が勝手にストーリーを補足して考えてくれるようにもなります。つまり、物語が作者からの一方的な押し付けではなく、読者の頭の中で増幅してくり広げられるようになるのです。

反対に世界観がないということは、水も溜まっていないところで浮け、そして漂えと読者に無理強いしているようなものです。水を飲ませて「これで酔っぱらえ」と言っているのと変わりません。無理です。せいぜい酔ったフリをした読者に、作者さんがぶん殴られるだけです。

当時のアイヌの生活を知ることは、かなり難しいでしょう。しかしそれを調べてこそ、プロの小説家といえるのであり、取材をもとに書かれてこそ、お金を払って読む価値のある小説といえると思うのです。ちなみに、充右衛門が訪れた蝦夷地のシベチャリは、現在の新ひだか町(の静内)です。そこにあるアイヌ民俗資料館では、作中当時とまではいかなくても、かなり古いアイヌの資料や知識が手に入るはずです。また、チャシの遺跡もあります。現地で調査しておけば、たとえ想像に頼る部分が多くなったとしても、多少の間違いなど気にならない、ちゃんとした世界観が描けるはずですから。

また、エンディングが信重中心ですっきりしすぎているのも、アイヌの側の世界観が省かれているせいではないかと思います。最後に読者(というか私)が気になるのは、シャクシャインの刀と、初音が身ごもった子の生い立ちでしょう。刀は充右衛門が持っていたはずなので、信重の手にあるのかもしれませんが、「それが子の手に渡っていた」ぐらいの展開を加えてもバチは当たらないだろうし、シャクシャインの呪いも収められることになるのではないでしょうか。……それとも、呪いって続いてるんですかね? まさかね。


発売日:2022年4月11日

馳月基矢『拙者、妹がおりまして(5) 』(双葉文庫)

勇実と千紘の兄妹に、龍治に菊香。本作は、この四人の若い登場人物が織りなす群像劇の四作目となる作品です。全四話が収録されており、短編の連作のようなつくりになっています。さらに、それぞれ一話完結になってはいるものの、前巻の話の続きだったり、次巻に続きそうな話も含まれています。

まずは第一話。この話を10に分けて起承転結で表すと、「起起承承承承承承(転)結」です。(転)と書いたのは、転にあたる部分は「ここかな?」となんとなく見当はつくのですが、どうも転っぽくないからです。

「生意気だぞ。女のくせに」
「女のくせにとしか言えないのかしら。男であることをわざわざ言い立てて威張るしかできないなんて、かわいそうな人」
 侍が顔色を変えた。
「何だと? 俺を侮辱するのか?」
「あなたが先にわたしと鞠千代ちゃんを侮辱したでしょう!」(p.62)

これは刀鍛冶のもとで、千紘と侍とでひと悶着がある場面です。おそらくこのあたりから始まる一連の話が転だとは思います。ならば、「侍と千紘が剣術で対決!」とか、「龍治が千紘をかばって、かっこいいところを見せる!」みたいな山場になるのかな? と思っていたら、どうも違うのです。

「お客人、今すぐ帰ってもらおうか」
 びしりと言い放つ声は、水心子のものだった。(中略)
 身動きを封じられながら、侍は狐顔に愕然した表情を浮かべた。
「水心子正秀に、大慶直胤……」(p.63)

有名な刀工二人の威厳によって、侍は追い払われます。これで転にあたる部分は終了です。千紘は文句をつけたものの、それ以上のアクションは取らず、ほかのメインの登場人物も何もしていません。山場は物語の中心となる部分ですから、メインの人物たちが関わらなければならないところです。もし関わらなければ、だれの物語なのかがわからなくなってしまいます。だから(転)としたのです。

そして、承がとても長いことも気になります。この第一話での承は、ほとんどが刀についての説明です。資料や文献をしっかり読み込んだうえで書かれていて、「すごいなぁ」とは思うのですが、小説としてはどうなんでしょう。説明が面白い(「興味深い」ということではなく、「滑稽な」とか「楽しい」という意味)ならばアリですが、ここではただ説明を読まされているような気分になってしまいます。

また群像劇というのは、すべてのメインキャラクターたちのストーリーが一つに結びつく場面が、物語の中で必要になります。それがないと、ただの「登場人物それぞれの話を直列につないだだけの物語」になってしまうからです。多くの群像劇の場合、その「結びつき」の場面は終盤に設定されますが、作中に何回か軽めの「結びつき」のシーンをつくったり、数人ずつの「結びつき」をつくりながら、最後に一堂に会するシーンを持ってきたり……といろいろなパターンがあります。

本作での最大の「結びつき」の場面は、おそらく第三話です。しかしここには、「さぁ、これですべてがここに集まったぞ!」というクライマックスとしての山場の雰囲気はあまりありません。そのため、本作全体が第一話と同様に、「起起承承承承承承(転)結」になっています。しかも(転)は、メインの登場人物たちではなく、おえんと壱というサブキャラ二人によってもたらされるのです。このような状況になったのにはいくつか理由があるとは思うのですが、いちばんの大きな理由は、登場人物たちが自主的に動かないことでしょう。

小説では基本的に、主人公もしくはそれに準じる登場人物は、自ら行動を起こすのが望ましいとされています。登場人物特有の境遇があり、そこに何らかの動機づけが加わることで、その人物の行動が生まれます。その行動が、物語になるのです。簡単にたとえると、貧しい人(境遇)が「貧乏人!」とバカにされて(動機づけ)、一念発起して商売を始める(行動)、といったように。

本作のメインの登場人物四人には、この「動機づけ」と「行動」がすごく少ないのです。四人のまわりではたくさんの出来事があるのですが、それらは四人の「動機づけ」と「行動」にあまりつながりません。そのため、通り過ぎるさまざまな出来事の中で、四人が「あの人が好き」「でも言えない」という逡巡をくり返しているだけのように思えるのです。

以前にもほかのエントリーで書きましたが、小説の読者の感情を直接動かすのは、ストーリーではありません。登場人物です。登場人物の言動に一喜一憂しながら読み進めるうちに、読者は心を動かされますし、そんな登場人物の動きからストーリーが生まれるのがベストです。本作というか本シリーズで、登場するサブキャラが一般的な作品に比べてとても多いのも、メインの登場人物があまり自主的に動かないために、サブキャラを動かしてストーリーを進めているからではないでしょうか。

そんな中でも、本作のおえんと壱の二人の物語は出色です。それぞれの過去や微かな幸せ、悲しさ、人のつながりなど、人情ものの持つべきものをすべて併せ持った、とてもいい話です。そして、おえんにも壱にも、「動機づけ」と「行動」が伴っています。つまり、メインキャラにないものを、サブキャラが持っているのです。それはそれでいいのかもしれませんが、やっぱりメインキャラの大活躍が見たいなぁという気分にはなります。


発売日:2022年4月12日