時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

鳴神響一『おんな与力 花房英之介【四】』(双葉文庫)

これは女剣劇だな、と思いました。本作は亡くなった兄になりすましている主人公・志乃が、女剣術士となって敵をバッサリと倒していく物語ですので、まさに女剣劇です。また、志乃がときには芸者の花吉や、女剣芸者の清水雪緒、医者の夕庵に変身するというギミックも、昭和30年代に大ヒットした女剣劇ドラマ『琴姫七変化』によく似ています。

女剣劇の面白さといえば、「女性でありながら刀を振るう」とか、「女ながらも男より強い」といったことだと思います。身体面・体力面で劣る女性が、男性に勝つというジャイアントキリング感。本作もその点は同じですね。志乃は恐ろしく剣術に優れていますし、相手が男だろうが女だろうが熊だろうが斬ってしまいそうです。そういうところが、本作でも面白さになっています。

ですが、本作と女剣劇では、主人公のあり方に大きな違いがあります。女剣劇では、主人公が女であるということを固持します。そうでないと、醍醐味であるジャイアントキリング感が薄まってしまいますから。『琴姫七変化』でも、主人公・琴姫は、日常は女性として過ごし、何かあったときには男装などの姿で大活躍します。どんなにいろんな姿に変身しようとも、基本というか本体(?)はあくまで女であって、ほかはあくまで借りの姿です。

しかし本作では、志乃の本体は女の志乃ではなく、男としての英之介です。英之介となった志乃からは、本物の男性との身体的な差異も感じられません。月経の心配もしてなさそうで、男装でもなければ男のなりすましでもない、本物の男性のようです。そのためか第一章は、「主人公はじつは女である」ということを知らなければ、男性が主人公の物語として読めてしまいます。

「参るぞ」
 義三郎は大刀をすらりと抜いた。
 雪緒も同じく抜いて中段に構えた。
 義三郎は上段から中段に構え直した。
(中略)
「参るぞっ」
 叫び声をあげて雪緒は跳んだ。(p.196-197)

「死ねやーっ」
 義三郎は大音声とともに斬り込んできた。
 雪緒は身体を左にさばいた。
 風が震えた。
 わずかの間合いで義三郎の刃は雪緒の肩先で空を切った。
 姿勢を正しながら雪緒は振り返った。
「たぁーっ」
 雪緒は刀を義三郎の首もとに打ち込んだ。(p.199)

これは終盤で、雪緒(志乃)が戦っている場面です。ザッと読むと、雪緒が男性だったとしても問題ないような描写になっています。いや、もしかすると、雪緒が相手の攻撃を身かわしで防ぐことで、男性との体格差を示しているのかもしれませんが。攻撃を刀で受けると、鍔迫り合いなどで男性に力負けしてしまう可能性がありますし、男性よりも女性のほうが身軽で動きがすばやいですから。しかし、そういったことを斟酌しても、女性と男性の戦いとしての特色はあまりない気がします。

先ほども書いたように、本作の面白さは、女性が男性を倒していくという女剣劇的な部分にあると思います。男性よりも体力や筋力、体の大きさで劣る女性による、ジャイアントキリング感が醍醐味なはずです。しかし、雪緒(女性)と敵(男性)との間には身体差が感じられないため、男性同士の戦いであるかのように感じるのです。

なにせ、敵の男たちが雪緒をあまり舐めていないんですよね。刀を持って戦うことが、ほぼ男性に限られていた江戸時代には、目の前で女が刀を構えていたら、「チョロそう」とか「楽勝だな」と思うのが当たり前のような気がします。それに、女性は明らかに自分たちより体が小さいのですから、力で押せば勝てると思うのがふつうかな、と。義三郎なんて、上段からわざわざ中段に変えているということは、雪緒と真っ向勝負しようとしてるってことですもんね。いい人だな。現代の剣道でも、段審査で女性と対戦することになった男性は、身長差を活かそうと、上段で向かってくることは少なくないのに。

 自分の頬が火照るのを英之介は感じた。
 酒のせいではない。
 何度も感じた胸の奥のうずきをいま痛切に感じていた。
(この気持ちは……いったい……)
 英之介は激しくうろたえていた。
 身体が小さく震えている。
 身も心も根本から崩れ落ちてしまいそうな、そんな不安な気持ちだった。
 英之介は我が心を偽っていたことに気づいてしまった。
 自分は雄之進に惚れているのだ。
 そう。英之介としてではなく、志乃として……。
 本当は雄之進に抱きしめられたいと志乃の身体が求めているのだ。(p.139)

本作のあらすじや帯には、「(志乃が)乙女心をひた隠し」と書いてあります。本作でその「乙女心」にあたるのはこの部分でしょう。亡き兄の友人だった雄之進への、恋心を露わにしていますね。前述のとおり、本作では志乃の女性としての身体性についてはほとんど言及されていないのですが、ここでは「胸の奥のうずき」とか「身体が小さく震え」とか「身も心も根本から崩れ落ちてしまいそう」と、やたら身体的な感覚の叙述が続いています。

さらに、「本当は雄之進に抱きしめられたいと志乃の身体が求めているのだ」と、いきなり「体が求めちゃう」みたいな表現が出てきています。突然のフランス書院っぽさ。これが男性と交際したことのない女性の(しかも江戸時代の)乙女心といえるかどうか。うーん。ちょっと違う気がします。

 鏡のなかに女武芸者、清水雪緒のきりっとして女らしい顔が浮かび上がった。
「やはり、よいな……」
 気持ちが高揚してくる。
 浮雲に言った言葉を思い出した。やはり自分は女なのだ。(p.180)

これは終盤で、志乃が雪緒に変身する場面です。志乃がやっと女であることを自覚しているのがわかりますが、鏡に映る志乃の「女らしい顔」という表現に引っかかりを感じます。日常的に男装している志乃が女の姿になったために、「女らしい顔」としているのかもしれませんが、志乃はもともと女なのですから、「女らしい顔」というよりは「女そのものの顔」「女としての顔」が戻ってきた、もしくは現れたということですよね。しかも「女らしい」という抽象表現は、読む人によって思い描くイメージが異なるため、具体的に表さないと、志乃(もしくは雪緒)がどんな女性であるかをイメージできません。そのあたりにモヤモヤしますし、女性としての志乃の存在が雑に扱われすぎなのではないかと思うのです。

歌舞伎での女形が本当の女性とは異なるように、男になりすました女性は、本当の男性とは異なります。その異なり具合を味わうのが女形の演技であり、「男になりすました女」のストーリーです。本作では、そんな「男になりすました女の生き方」よりも、「女性が変身すること」「女性が男性をバッサリ斬りまくること」を楽しむべきだとはわかっているのですが、どうもモヤッとするんですよね。だって、変身してバッサリと斬りまくる「本体」である女性が魅力的でないと、物語は面白くなりませんから。


発売日:2022年4月14日

谷津矢車『刀と算盤 馬律流青春雙六』(光文社時代小説文庫)

時代小説には、「アベンジャーズもの」といえるジャンルがあります。というか、私が勝手にそう呼んでいます。何らかの特技や技能をもった登場人物が何人か集まり、敵に立ち向かっていく、みたいな話ですね。

本作も、「アベンジャーズもの」といえる作品です。唯力という江戸時代のコンサルのような生業の男を中心に、ちょっと変わった武道の道場主である新右衛門、「剣にしか秀でたところのない」と自称する近藤、将棋で身を立てたかった元幇間・四平などが集まり、最後には全員で悪に立ち向かいます。

私がこれまで読んできた「アベンジャーズもの」は、わざとらしい部分が多い作品が多く、「もうちょっと自然にしてくれないかなぁ」と思っていたものでした。何がわざとらしいかというと、構成員の集まり方ですね。どこからともなく突然現れた人が加入する場合、どうもわざとらしい。大げさなふるまいをしたり、読んでいる初っ端から「今はこの人は悪人だけど、あとでアベンジャーズに加入するんだろうな」とわかってしまうようなパターンがとても多かったです。

その点、本作はとても自然です。それは、それぞれの仲間をアベンジャーズに引き入れるエピソードにおいて、「仲間にすること」ではなく、「その人がどんな人か」という「人を描くこと」に重点が置かれているからでしょう。そのおかげで、最後の全員での戦いまで、納得して読み進めることができます。「たしかにこの人たちなら、協力し合い、力を出し合って戦えるだろう」と。

こういった「人を描くこと」は、小説ではともすると省かれがちです。ストーリー進行が何よりも重視されてしまい、登場人物の描写は二の次にされてしまうことが多いのかもしれません。下手をすると、登場人物がストーリーにとって都合のいい言動しかとらない人間と化していることもあります。そうなると、登場人物が御家人だろうと浪人だろうと、商人、農民、はたまた物乞いであろうとも、肩書きや言葉遣い、身形が異なるだけで、大した個性ももたない存在になり果ててしまいます。それでは登場人物ではなく、ストーリー進行に都合よく動くだけの登場ヒューマノイドです。

しかし本作では、登場人物はストーリーに沿いながらも、その人にしかできない言動を見せています。それは作者さんが「人を描く」ことをしているおかげでしょう。

「おいおいおいおいおい!」
 裏路地の米屋に思わず怒鳴り込んだ。
(中略)
「これはなんだい」
 伸介が指したのは、米俵の横に置かれた小さな壺だった。直径二寸ほどのそれは蓋がされ、縄で厳重に縛ってある。
「味噌だよ。米だけじゃなかなか売れないもんでね」
「俺んところと同じ商法をやってるたあ太え野郎だ。どういうこったよ。これァ俺が考えたんだぞ」
 本当のところ、売り方を考えたのは唯力だが、そこはあえて目をつぶる。
 米屋の主人は顔をしかめ、何言ってるんだい、と吐き捨てた。
「これァあたしが考えたんだよ。(後略)」
「はあ? 怪しいもんだな、てめえみたいなすっとこどっこいにこんな名案が浮かぶなんて思えねえ」
「なんだとこの野郎、言わせておけば」
「やるのか、あァ? こちとら気が立ってるんでぃ、年寄一人いたぶるなんざ楽なもんだ」(p.32-33)

これは第一話で、唯力のアドバイスを受けた米屋・信介が、自分と似た商売をしている米屋に文句をつけている場面です。このあとで信介はボコボコにされて、逃げるようにして唯力のもとへ行き、「どうして同じ商売をしてるやつがいるんだ!」とクレームをつけます。そこから、唯力が新たな商売のアドバイスをする、という展開に向かいます。

だったらわざわざ米屋でのひと悶着を入れず、ボコボコに傷ついた状態の信介が唯力のもとに行くシーンから描いても問題ないはずです。多くの小説では、そういう「端折り」をしますから。しかし本作では、端折らずに書いています。あえて書かれたその部分からは、信介はバカがつくほどまっすぐな人間ではあるものの、口が悪く、喧嘩っ早いということがわかります。これが「人を描く」ということではないでしょうか。こういった人物の描写が最初にあるおかげで、最終話の第五話で、信介があるトラブルを持ち込むエピソードも、「信介なら、そういう行動をするそういうことをする人だよね」「信介なら、そういう人間と付き合うだろう」と、腹落ちしたうえで読むことができます。

「こんにちは。新右衛門様は……。あれ? お客様ですか?」
 入ってきたのは稽古着姿の智佐であった。満面に笑みを湛えているものの、男五人が膝を突き合わせる様を怪訝に思っているのか、顔が曇っている。
「あれ、智佐殿。今日の稽古は午後からですよ」
 新右衛門の言葉に、智佐はさらに眉根を寄せる。
「いえ、午前中に……とのことでしたよ。――けれどお客様がおられるみたいですし、出直します」
「いやいあ、拙者の勘違いなら申し訳ありません。稽古をしましょう」
 新右衛門が立ち上がって招き入れると、智佐は嬉しげに同情に上がり込んだ。
 唯力たちが何を話すのか気になって仕方ないが、縁がなかったと諦めよう。そう心に決めて車座から離れると、顔を上気させて華やいだ笑みを浮かべる智佐に向き合った。(p.167-168)

「さあ、稽古を続けましょうか」
 そう声をかけたものの、智佐は、はあ、と息をつき、恨みがましい目を車座の男衆に向けた。
「新右衛門様、別にいいんですよ。無理してお相手してくださらなくても。さっきから新右衛門様、あっちの話に気を取られているみたいなんですもの。わたしのことはいいですから、あちらに混じってください」
 少し頬を膨らませて智佐はそう言った。
「いいでんすか!?」
「はい、しょうがないですもん」
 視線を脇に向けた智佐を尻目に、新右衛門はまた男たちの輪に加わっていった。(p.169-170)

これは、新右衛門が仲間とともに話し合っていたときに、道場の弟子である智佐が訪れた場面です。本当はみんなと話していたいのに、師匠として智佐に稽古をつけなければならない。だけどみんなの話に気がとられて……という新右衛門の様子がよくわかります。ここだって、端折ろうと思えば端折れたとは思うんです。ストーリー進行にはほとんど関係のないところですから。でも、あえてこの場面を描くことで、新右衛門の気もそぞろな様子や、だれも傷つけたくないような性格、そして智佐の想いに気づかない朴念仁っぷりが読者にはっきりと伝わるのです。そして、こういう新右衛門の態度が、彼の乗り越えるべき課題につながっていると、のちのエピソードでわかるようになっています。

こういったストーリーには直接関係なく、一見無駄とも思える人物描写を入れることが、そしてそれを読むことが、小説の醍醐味だと思うのです。読者の感情を直接的に動かすのは、ストーリーではなく登場人物です。読者は、登場人物の喜怒哀楽や言動に共感し、ときには「無茶だろ」と思えるような行動にハラハラして、「面白い!」「感動した!」「泣けた!」と感じるのです。本作では、しっかり描かれた登場人物たちによって、楽しいストーリーが編み出されています。つまり小説のストーリーの面白さは、登場人物の面白さであり、ひいては作者さんが登場人物とがっつり向き合うことから生まれるということなんでしょうね。


発売日:2022年4月12日

坂岡真『継承 鬼役(三十二)』(光文社文庫)

結婚披露宴でのスピーチのド定番ネタに「結婚生活には3つの袋が大切と言われておりまして……」というのがありますが、小説では「3つの山」が大切というか金科玉条になっています。長編小説であれば、山場となるエピソードが3つは必要だということですね。しかもその3つの山からなる「エピソード連山」は、次第に高くなっていかなくてはなりません。最初が高尾山(標高599m)だったら、次は谷川岳(1,977m)、そして最後に富士山(3,776m)というように。

本作では、この「エピソード連山」がお手本のように見事にそびえ立ち、さすがは大人気シリーズの最新作だなぁと唸りたくなりました。そんな作品に、私ごときがゴタゴタ感想を書く必要もないのですが、「読んだ時代小説の新刊は必ず感想を書く」という誓いをうっかり立ててしまったので、僭越ながら書かせていただきます。それに本作は、「エピソード連山」をはじめとして、エンタメ小説を形作る基本をしっかり押さえた良作なので、そこらへんを自分なりに解読したい気持ちもあります。

さて、先述したとおり、小説には「エピソード連山」が必要ですが、冒頭からいきなり山があるわけではありません。山に入る前に、「なぜこれから主人公は『エピソード連山』に踏み込まなくてはいけないのか」といった導入が必要です。連山に導く登山道というところでしょうか。

 蔵人介は平伏した。
「それは上様の御命と心得て、よろしゅうござりますか」
「よい。鬼役として、邪智奸佞の輩を始末せよ」
「ははっ」
 阿部伊勢守の瞳が冷たく光った。
 年若い老中の老獪な話術に嵌められたような気もするが、蔵人介はともかくも猶予を与えてくれた度量に感謝するしかなかった。(p.93)

これがその「登山道」といえる場面の、最後の部分です。「年若い老中の老獪な話術に嵌められた」とありますが、何だかんだいっても、幕府の老中という要職にある人に命令されたのですから、蔵人介は拒否することはできません。逃げも隠れもできない、「やるしかない」という状況になります。ここを、ケツをまくって逃げられるような、ゆるーい状況にしてはダメですね。「やるしかない」「逃げ場がない」という状況に置かれるからこそ、この後にそびえ立つ困難の数々――つまり「エピソード連山」に立ち向かう必要性が出てくるからです。

さて、「やるしかない」という状況になった蔵人介は、いよいよ「エピソード連山」に向かいます。本作での「エピソード連山」は、これまた基本に忠実で、進めば進むほど難易度が上がります。そのため、最初の「第一の山」で対峙する「敵」はそんなに強くはなく、主人公たちはあっさりと山を乗り越えます。そんな「最弱」を相手にすることで、主人公やメインの登場人物たちのすごさを読者に見せつける場面としても使えるのが、「第一の山」なのです。

――きゅいーん。
 狐が鳴いた。
 腰塚は、ぴたりと動きを止める。
 刀の柄を掴んだ右手が、手首からぼそっと落ちた。
「げえっ」
 驚いて目を剥くや、血飛沫がほとばしる。
「ぎょえっ」
 腰塚の首が銅から離れ、一瞬で虚空に消えていった。
田宮流奥義、飛ばし首……」
 卯三郎が震えながらつぶやく。
 まさに、瞬きのあいだの出来事であった。
 蔵人介は抜き際の一刀で小手を落とし、二刀目で相手の首を刎ねたのである。(p.128-129)

これは「第一の山」の中の、蔵人介の戦いの場面です。グロめの表現ではありますが、どんな技で倒したのかが一目瞭然。剣道での「小手面」に近いものでしょうが、小手でも面(本作では「首」ですね)でも、連続で切り落とすほどの力をこめていて、蔵人介のすごさがはっきりとわかりますね。

その後、蔵人介はちょっとまずい立場に置かれます。しかしこれがフックになって、「第二の山」に突入します。このフックのつくり方もうまいんですよね。最初にあった「登山道」同様、蔵人介は逃げることを許されず、必ず「第二の山」に向かわなければならないように仕組まれています。

その「第二の山」では、「第一の山」とは比べものにならないほどの強い敵に遭遇し、少々痛手を負うものの、何とか乗り越えます。その先で、事の真相を知ることになります。この気づきが「第三の山」、つまり最大の山場へと向かう原動力になります。「第一の山」と「第二の山」は、どちらかというと「いろんなしがらみのせいで、仕方なく進んじゃった」みたいな部分が少なからずあるのですが、第三の山に関しては100%自己意志です。それぞれの山をつなぐフックの部分にも起伏を持たせるなんて、坂岡真さん、すごすぎるな。

――ぶん。
 刀は空を切った。
 富樫は宙返りし、五間向こうに舞いおりる。
 全身の毛穴から、どっと汗が吹きだしてきた。
 手足がぶるぶる震え、抑えきれなくなってしまう。
 武者震いであった。
 対峙しているのは忍びではない。
 蔵人介は紛うかたなき剣客を相手にしているのだ。
 魂の奥のほうから迫りあがってきたのは、勝ちたいと願う武芸者本然の渇望であろうか。(p.310-311)

これは「第三の山」の山頂付近ともいえる部分です。蔵人介が鬼役の役目うんぬんよりも、武者として本気で勝ちたいと願っていることがわかります。だからこそ、まさに「鬼」といえる風情にもなっています。また、「第三の山」を乗り越えるにあたっては、蔵人介が大事なものを失ったり、ちょっとした「ひねり」のある展開が差し込まれたりと、最後の最後まで読みごたえのある展開が続きます。

さて、なんとか「エピソード連山」を踏破したあとは、エンディングです。第三の山で失った蔵人介の「大事なもの」についての救いが、ここで訪れます。この展開も憎い。100点満点の大団円とはいかない、ちょっと切ない終わり方も憎い、憎いぜ、憎すぎるぜ。

このように、最初から最後まで徹底して「ザ・エンタメ小説」として成り立っている本作は、世にあふれる「小説の書き方」みたいな本よりも優秀な「執筆指南本」であるともいえます。「本作を読めば絶対に面白い小説が書ける!」とまではいいませんが、読者というよりは研究者のような視点で5回ぐらいくり返して読めば、小説のしくみがかなり見えてくるような気がします。小説を読むときには、ストーリーを味わうだけでなく、構成をしっかり読み込むことはとても大切ですから。……というわけで、私もあと数回は読み返そうと思います。


発売日:2022年4月12日

岡本さとる『鯰の夫婦 居酒屋お夏 春夏秋冬』(幻冬舎時代小説文庫)

人情ものであり、居酒屋ものでもある。そんな時代小説の定番のど真ん中にある『居酒屋お夏』シリーズの、外伝的な「春夏秋冬」の第五弾が本作です。定番ということは、似た作品が山ほどあるわけで、数多くある類書の中で、際立った部分をどのように出していくかがポイントになるかと思います。では本作はどうかというと、ほかの人情もの&居酒屋ものととくに変わりないな、というのが正直な感想です。中心人物であるお夏の大立ち回りは少々出色な感じですが、それが中心になる物語ではありませんから。

しかし、そんな「とくに変わりない」感じが、読者を安心させるポイントでもあると思います。第一話では夫婦愛、第二話では親子愛と兄弟愛、第三話・第四話では幼なじみ同士の思いやりと、年配の読者にとっては、身近であり好まれるタイプの話が並んでいます。

ここで「年配の読者」と読者層を示しましたが、それは話の内容だけを元にした推測ではありません。本作の文字が、「年配の読者」をターゲットにしていることを物語っているのです。でかいんです、フォントが。本を開いたとたん、「でけぇ」と思わずつぶやいたほどです。時代小説の大御所オブ大御所・佐伯泰英の作品などでも見られる、この「大フォント」は、老眼世代のための親切設計だと思うんですよね。決してページ数を稼ぐための手段ではないと思います、たぶん。

「その、まさかさ……。小父さん、亀次郎だよ」
 亀次郎は嬉しそうに名乗った。
「やはり亀さんかい……。てことは連れのお人は……」
「鶴吉だよ……」
「こいつは驚いた。そうかい……。立派にお成りになったねえ……」(p.128)

これは本作の第二話での会話部分です。三点リーダー(…)がすべての台詞についています。この三点リーダーの多さが、本作の台詞での最大の特徴ですね。三点リーダーが表すのは、余韻というか、言葉にならない吐息的なものでしょう。そういうものを、多くの台詞にこめているということでしょうか。

じつはこの三点リーダーのほかにも、本作の台詞では、かなり特徴的なものがあります。

「天下のくそ婆ァらしく、受けてやれと言っているんだよ」
「いや、でもねえ……」
「四の五のぬかすんじゃあねえや。さあ……」
「さあ……」
「さあ、さあ、さあ、婆ァ、どうするんだよう!」
「わかったよう!」(p.57)

「こいつは親分、かっちけねえ……」(p.115)

まず最初の会話の引用では、「どうするんだよう!」「わかったよう!」と、語尾に「う」という長音(のばす音)のようなものがついています。これが特定のキャラクターの台詞だけにつけられるなら、「この人物の口調のクセかな?」とも思うのですが、多くの人物がこの長音をつけて話していますので、どちらかというと作者さんの執筆のクセなのでしょう。

そして、「さあ……」「さあ、さあ、さあ」のやり取りは、歌舞伎でよく用いられる「繰り上げ」が元ネタでしょう。「繰り上げ」は、問い詰める側と問い詰められる側が「さあ」と言い合い、詰め寄っていく掛け合いで、最近ではドラマ『半沢直樹』でも、香川照之片岡愛之助が繰り上げをしていましたね。

そして二番目の引用にある「かっちけねえ」は、「かたじけない」という意味の言葉です。いわゆる江戸弁です。しかもわりと乱暴なタイプの。この「かっちけねえ」をはじめとした乱暴な江戸弁は「六方詞(ろっぽうことば)」と呼ばれ、「旗本奴」というヤンチャな若い旗本の武士たちが使う言葉でした。この六方詞も、歌舞伎の荒事などでよく使われています。

本作にどうしてこんなにも歌舞伎が元ネタらしき表現が出てくるかといえば、作者さんがかつて松竹に勤務していて、歌舞伎の脚本も書いていたからでしょうね。納得です。

おそらく作者さんは、これまでに歌舞伎をたくさん観てこられたのでしょう。そうでなければ、歌舞伎の台詞回しをそのまま小説の台詞にするはずがありません。そこから浮かぶのは、作者さんが、書籍などの「文字情報」よりも、歌舞伎などで得る「音声情報」を重視されているんだろうな、ということです。

わかりやすい例でいえば、三島由紀夫宮沢賢治ですね。音だろうが空気感だろうが、すべての情報をゴリゴリに書き込む三島由紀夫は、がっつり「文字情報」によって小説を書いている人、「どっどど どどうど どどうど どどう」「ギーギーフーギーギーフー」「かぷかぷ」など、独特の擬音を生み出した宮沢賢治は、「音声情報」をうまく小説や詩に乗せられる人なのではないかと思います。

で、本作の作者さんは、「音声情報」を採用しやすい人なのだろうと思います。三点リーダーや「~だよう」とのばす口調が多いのも、実際に耳にした言葉をもとにして、それと似た雰囲気の台詞を作ろうとしているのかもしれません。そして、歌舞伎が元ネタの言い回しが多いのも、歌舞伎で耳にしたものを「面白い!」と感じ、小説で使おうと思ったからでしょう。

ただし元ネタがあるものは、元ネタを知らないと面白さが半減どころか四半減してしまうんですよね。本作でも「繰り上げ」や「六方詞」は、元ネタが少々わかりにくいので、「変な言い回しだなぁ」とか「何だよこの言い方」などと、読者が感じてしまう可能性もあるんじゃないかなぁと思います。また、元ネタがある表現は、多用したりわざとらしく使ったりすると、悪目立ちするんですよね。実際、本作でも「かっちけねえ」が何度か出てくるのですが、そのたびに「この言い方だけ浮いてるな」と思ってしまったので、粋と鯔背が信条の江戸っ子たちの物語らしく、ぜひさりげなく使ってほしいものです。


発売日:2022年4月7日

白蔵 盈太『画狂老人卍 葛飾北斎の数奇なる日乗』(文芸社文庫)

キャラクターで読ませるか、ストーリーで読ませるか、はたまた世界観で読ませるか。どれで読ませる小説がいいのかといえば、この三つをしっかり兼ね備えているのがベストです。しかしそれが簡単にいくなら、すべての小説家のすべての作品が直木賞やら山本周五郎賞やらを受賞してしまいます。つまりどんな小説でも、ある程度は「キャラクター」「ストーリー」「世界観」のいずれかに比重が傾いているということですね。

さて本作はどうかというと、9割方キャラクターで読ませる小説です。葛飾北斎という(いろんな意味で)とんでもない絵師が出てきますし、その娘・お栄の(いろんな意味で)とてつもない女性像も面白いです。お栄に片思いをしている絵師・英泉のキャラクターもいいですね。

「弟子なんかじゃねぇ。こいつは十年ほど前にたまたま近所に住んでただけだ。(中略)本当にろくでもない奴だよこいつは」
 その途端、露骨につまらなさそうだった英泉の顔がパアッと明るくなった。
「何を言ってんだよお栄ちゃん、冷たいなあ。昔はよく一緒に遊んでやった仲じゃないか。あの頃のお栄ちゃんは本当に可愛いらしかった」
「うるさい。そういう話はうちじゃなくて、自分ちでやんな。とっとと帰れ、この雲助野郎が」
 英泉はうれしそうに自分からベラベラと陽気にしゃべる。さっきまでの、常次郎に対する淡泊な態度とは大違いだ。
「ひどい言われようだ、俺は悲しいよ」
「露ほどもそんなこと思ってないくせに白々しい。女に色目ばっかり使いやがって」(p.85)

このお栄との会話でも、英泉のキザっぽいけど憎めない性格が見えますね。優男で女好きだけど、じつは純情、みたいな。少女漫画で、主人公に言い寄ってくる脇役として出てきそうなタイプです。ジェンダーフリーの時代にこういうことを書くのは憚られるのですが、男性作家さんで英泉のようなキャラクターを面白く書ける方は多くないと思います。実際の男性には、めったにいないタイプの設定キャラですから。

キャラクターで読ませる作品は、登場人物同士のかけ合いが面白く、するすると読めることが多いものです。本作もまさにそのとおりで、あっという間に読めてしまいました。それは作者さんが、読みやすさをかなり意識して書かれているからじゃないかなぁと思いました。長い台詞の途中には段落を入れてますしね。読者へのホスピタリティがあふれています。

そして、こちらも読みやすさを意識しているのだとは思いますが、一行空けが異様に多いです。一行空けといえば、私の中では「場面展開および一定時間の経過、視点の切り替え、回想シーンの挿入など」といった場合に用いられるイメージです。本作でもそういった箇所に用いられてはいますが、それ以上に「どうしてここに?」という箇所に多用されています。

 そう言ってお栄は目尻を下げて笑った。普段の眼光が人一倍鋭いせいか、笑うとやけに親しみやすい印象になる。常次郎はわけもなく胸が高鳴り、頬が少しだけ赤くなった。するとお栄は黙って袂から煙管を取り出し、煙草を詰めはじめた。

 ……え? この人、煙草吸うの?
 常次郎は少しだけ幻滅した。たしかに商家や農家の女で煙草を吸う者もいるが、煙草を吸う女といえば、誰もが真っ先に思い浮かべるのは吉原の女郎だ。(後略)(p.18)

この引用部分でも一行空けが用いられていますが、必要ない気がするんですよね。なくても十分に読みやすいですし、話の展開にも差し障りありません。かえって一行空けたことで、何か特別なことが起こるかのような期待を抱かせるため、読者が肩透かし感を覚える可能性も秘めています。というか、実際に読んでいて「おっ、一行空けか。何か変化があるのか? ……ないんかーい!」ということが何回もありました。

また、あまりにも一行空けが多いせいで、本当の意味で必要な一行空け(場面転換など)が埋もれてしまい、いきなり場面が変わったり、時間が過ぎたり、視点が変わったり、回想に入ったりしているように感じられるところもありました。「一行空け慣れ」してしまった、とでもいうんでしょうかね。本来なら物語の起伏や変化をつけるための一行空けの多用で、かえって物語が平板なイメージになっているような気がします。もったいない。

また、登場人物の一人である北渓の、地の文での呼び方も気になりました。本作の地の文では、登場人物名は基本的に呼び捨てなのですが、なぜか北斎の一番弟子・北渓だけが「さん」付けなのです。これは収録の六つの話のうち、三話目までは北斎の最年少の弟子・常次郎の視点で進むためでしょう。兄弟子だから呼び捨てにできないってことですかね。でも、師匠である北斎も、その師匠の娘であるお栄も呼び捨てですが。

まぁまぁまぁ、それはそれでそういうものなんだろう、と頷きながら読み進めると、四話目でいよいよ頷きが首のひねりに変わります。冒頭は三話目までと同様に、常次郎の視点で進みます。お栄の結婚にまつわる話と北斎とお栄の川柳の話が、常次郎の視点で述べられているかと思ったら、一行空けのあとに視点に変わります。

 言い終わる前に吐き気が込み上げてきてお栄がえずきはじめたので、常次郎は慌ててお栄の背中をさすった。
「まったくもう、本当に困ったお人だな。気持ち悪いんなら無理してしゃべらないで、黙って下向いててください」
「おええええ」

 特に用もなく北斎の家に顔を差した北渓さんを、英泉が強引に茶屋に連れ出したのはその翌日のことだ。
 英泉は深刻そのものの表情を浮かべ、暗い声で言った。
「魚屋の兄貴、あいつら、できてるよ」 

 ああ、ついにその話が来たかと北渓さんはうんざりした。(p.159-160)

一行空けの前後で、視点が変わっていますね。前のほうが常次郎、後ろのほうが北渓「さん」です。あえてカギカッコをつけましたが、北渓の視点になったのに、北渓には相変わらず「さん」付けです。自分で自分に敬称を使っているかのようで、不自然ですね。プロットの段階で、途中から視点が常次郎から北渓に変わることがわかっていれば、北渓の「さん」付けは最初から不要というよりは邪魔になると気づけると思うのですが、どうなのでしょう。

さらにこの後には、英泉視点になる部分もあったり、またもや北渓視点に戻ったりと、視点がとっ散らかった展開になります。それならいっそ、冒頭から北溪視点か英泉視点、もしくは多元視点でよかった気がするのです。視点がコロコロ変わるせいで、「これ、だれのモノローグだ?」と混乱したり、せっかくのストーリーがわかりにくくなったりしていますので。

またこの四話目では、北渓および英泉視点に変わってからの話がかなり長いため、冒頭の常次郎視点の話が浮いてしまっています。浮かせてまで冒頭に出したということは、お栄の結婚の話や川柳の話が、話(章)の最後に何らかのつながりをもつのかな? と思ったのですが、そういったこともありません。ならば、やはり最初から北渓および英泉視点、もしくは多元視点にしたほうが、一つの話(章)としてはまとまったんじゃないかなぁ、と。展開上、どうしてもお栄の結婚の話が必要なら、出戻ってきたとき(一話目)に入れてもいいですし、北斎の川柳の柳号(卍)の話が必要なら、その話が再び出てくる六話目に入れてもいいんじゃないかと思います。

それに、きちんと多元視点(少々蔦重寄りですが)になっている五話目は、最初から最後まで違和感なく面白く読めるので、四話目だって多元視点で行こうと思えば行けたと思うんですよね。もし私が作者さんの友達だったら、「四話目も多元視点で行こうぜ! 君ならできるさ!」と肩を叩いて励ましつつ、夕日に向かっていっしょに駆け出してたんじゃないかなぁ。すっげぇ迷惑だとは思いますが。


発売日:2022年4月5日

柴田よしき『小袖日記』(文春文庫)

まずは本作を読んだ人のほとんどが、言いたいであろうことを代弁します。

「この主人公、医者でも看護師でもないのに、なんでこんなに医学の知識があるんだよ!」

「(前略)この国ではほとんど症例がないけれど、海を渡った大陸のその先、西の果ての国々の病気で、気分が悪くなったり頭痛がして、そのままだと昏睡状態になって死んでしまうのだけれど、甘いもの、糖蜜のようなものを食べるとおさまる、そんな病気です」
 低血糖症だ。糖尿病患者が適切な血糖値管理をしていないと起こすことがある、いわゆるインスリンショックってやつ。(新装文庫版 p.67)

この引用部分だけ読むと、だれかが病状について話していて、医学的な知識のある人がモノローグで説明を加えているように思えます。それは間違いではありません。しかし、最初に病状について話しているのは、私たちが「紫式部」と呼んでいる香子という女性で、補足説明をしているのが主人公の「あたし」(の意識が入った小袖という女性)だということが、この部分をちょっと不思議な状況にしています。

この「あたし」は、2000年初頭の現代から、平安時代(正確には、現在の世界のパラレルワールドとしての平安時代)にタイムスリップしてきた女性です。ですから、「あたし」が現代的に病状を説明していることも、何らおかしいことではありません。しかし問題なのは、彼女は医者でもなければ看護師でもない、何からの医療従事者でもない、ただの会社員だということです。一介のOLでありながら、ここまでビシーッと病名を言い当てる人はそうはいないでしょう。そんな反論を見越してか、先ほどの引用部分に続いて、こんな一文が加えられています。

たまたまあたしの親類に、小児糖尿病の子がいるので、半端ながらおおまかな知識があった。(文庫版 p.67)

小児糖尿病といえば、1型の糖尿病ですね。1型の患者さんは、たしかに低血糖を引き起こすことがありますが、引用したこの一文はおそらく作者さんの言い訳ですよね。「医学の知識がない『あたし』が低血糖症を知っているのは、こういう理由があるからなんです」という、ちょっと苦しい言い訳です。しかもこの引用部分のあとには、とてもていねいな糖尿病の説明が入ります。親類の子のことを聞き齧ったというレベルではないほどに、です。

 あたしは、絶句した。
 そこに、確かに蜘蛛のような形が見えた。両脇の下から乳房にかけてリンパ腺が腫れている。蜘蛛の脚のようにも蟹の脚のようにも見える、隆起。わずかだが、はっきりとしたその瘤のような腫れ。

 癌だ……乳癌の……末期。(新装文庫版 p.182)

「医学的知識のない人間が医学にくわしい」という場面が1回だけなら「しゃーねーな」と見逃したくもなりますが、本作では何回も出てきます。この引用部分もそうですね。所見だけで乳がんと判断しています。ほぼ断言。しかも「末期」と言い切っています。すごい。すごすぎる。医師でも所見だけで乳がんと診断する人はいないのに。

実際のところ、引用部分に書かれているようであれば、がん組織が体表に現れた「花咲き」と呼ばれる状態だと思われるため、乳がんを疑いたくなる所見ではあります。さらに両胸にできていることと、10代後半~20代前半と思われる女性(山吹の上)の病状であることを考えると、遺伝性乳がんである可能性が非常に高いのではないか、と乳腺科の医師なら判断しそうです。もちろん、各種の検査をしたうえでですが。

とはいえ、いきなり「リンパ腺が腫れている」と言い出すのはナシでしょう。脇の下のリンパ腺がどこにあるかなんて、知らない人のほうが多いはずですし、そもそもリンパ腺が脇の下にあることを知らない人も少なくないですから。そのうえ、ここには「主人公もしくはその近親者が、若年性乳がんサバイバーだった」みたいな言い訳はありません。ということは、「あたし」は本当にすごい医学知識の持ち主ということになるんですが、それでいいのでしょうか。いいってことか。パラレルワールドだからね。

このあとも、婦人科系の話やアレルギーの話など、「本当に医療従事者じゃないんだよね?」と主人公に問いかけたくなる場面が出てきますが、それさえも「しゃーねーな」と思わせてくれるほど、本作はなかなか面白いです。「あたし」やそのほかの女性たちが自分なりの生き方を導き出すために、女性のあり方について、パラレル平安時代と現代の両面から考えるという、壮大ながらも納得のいくストーリーになっています。

本作の面白さを引き立てているのは、作者さんの文章のうまさでしょう。地の文では段落が少ないのですが、それでもスルスルと読めてしまいます。会話にわざとらしさがないのもいいですね。そのため、読み終わったあとには「面白かったな」という感想が素直に浮かんだのですが、文章のうまさにはぐらかされているような気持ちにもなりました。それは、この作品の設定に納得できないまま読了したせいでしょう。つまり、「この作品では、どうして『平安時代へのタイムスリップ』ではなく、『現在の世界のパラレルワールドとしての平安時代へのタイムスリップ』という設定にしたのだろう?」ということです。

過去へのタイムスリップでさえ設定としては変化球的であるところに、その過去がじつはパラレルワールドだったという、さらにまどろっこしい設定がわざわざ加えられています。しかも何回も「ここは本当の平安時代じゃなくパラレルワールド平安時代だからね!」と念押しをするような記述があるので、「ならば、その設定に必然性があるのだろう」「その設定が必ずストーリーにかかわるに違いない」と思いながら読み進めたのですが、ストーリーにはかかわりがありませんでした。現実世界とパラレルワールドの違いとして、唯一言及されているのが重力(パラレルワールドのほうが、重力が少々弱い)ですが、これもストーリーにはあまり関係ありません。そのため、「ふつうに『平安時代へのタイムスリップ』でも問題なくね?」と思いましたが、よくよく考えると、このパラレルワールド設定も「言い訳」の一つのような気がするのです。

 いや、正確に言うならば、これはタイムスリップとはどうやら違うようだ。今、あたしがいるこの時代は、あたし自身がもともといた時代と直線で繋がっている「過去」ではないらしい。どうしてそんなことがわかるんだ、と問いつめられたら困るのだが、なんとなく、微妙にずれた部分が随所に見受けられる。(新装文庫版 p.83)

これは第二章の冒頭での、「あたし」のモノローグです。ここで何を伝えているかというと、おそらく「『あたし』がいる平安時代は本当の平安時代じゃないんだから、時代設定がズレていても許してね」ということなんじゃないかと思います。

正直言って、本作はガチの平安時代設定か、ガチの平安時代へのタイムスリップ設定のどちらかだったとしても、問題のない作品だと思います。時代考証については、ガチでマジの平安時代の研究者にお願いすればいいだけの話ですから。また、最初に述べた「主人公の医学知識あり過ぎ問題」も、主人公を医師もしくは看護師だったという設定にすればいいんですよね。こちらについても、ガチでマジでリアルな医師または看護師に監修を頼めばいいだけです。それをしなかったのは、作者さんの判断なのか、編集(版元)側の判断なのかはわかりませんが。

そして本作でいちばんつらいのが、作者さんの文章のうまさが、ここまで述べたような言い訳やごまかしに使われていることです。もったいない。文章がうまいというのは、とても稀有な才能であり、作者さんのここまでの努力の証ともいえるものです。それを無駄にせず、物語を紡ぐことだけに使っていただきたいな、というのが正直な気持ちです。


発売日(新装文庫版):2022年4月6日

神永学『浮雲心霊奇譚 血縁の理』(集英社文庫)

心霊探偵八雲』シリーズでおなじみの作家さんによる、「時代小説の最前線」(帯より)となるシリーズ『浮雲心霊奇譚』の6作目です。『心霊探偵八雲』の主人公・八雲と同じ赤い目を持つ浮雲が主人公であるのを見ても、帯の「『心霊探偵八雲』の原点がここに――」という煽り文を見ても、2つのシリーズは地続きになっているということなんですね

大人気シリーズを書かれている作者さんの作品だけあって、本作は非常に読みやすいです。読みやすさにはいろんな定義がありますが、本作というか神永学さんの文章の読みやすさのポイントは、ビジュアライズされていることです。「読んでいて映像が浮かびやすい」ということですね。だからといって、物事の描写が細かいとか、「ドーン」「バーン」みたいな擬音や大袈裟な表現を使っているとかではありません。小説の視点の使い方がとても独特であるために、読みやすくなっているのです。

「これで、お前は二度と刀を握れないし、賭け事をすることもできない。大人しく、お縄にかかり裁きを受けろ」
 近藤が、持っていた木刀を下ろした。
 ――終わった。
 そう思った刹那だった。
 達一郎が、海老のように身体を仰け反らせたかと思うと、ぶはっと口から血を吐いた。
 ――何だ? 何が起こった?
 見ると、達一郎の胸から、刀の切っ先が突き出ていた。
 何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう。
「現れやがったな!」
 浮雲が叫ぶ。
 それと同時に、達一郎の身体から刀が引き抜かれる。
 どさっと達一郎がその場に倒れ、背後から姿を現したのは、まるで箪笥のような笈を背負い、一本髭を生やした小柄な翁だった。
 八十八は、その人物に見覚えがあった。
「蘆屋道雪――」
 浮雲が、その名を口にした。(p.93-94)

小説の「視点」は、基本的に最初から最後まで固定されます。主人公視点で書き出したならば、最後まで主人公視点です。そこに主人公の母親とか友達とか、マックにいる女子校生などの、ほかの人の視点が入ってくるのはNGです。連作ものや主人公が複数人いる作品では、何度か視点を切り替えながら進むことがありますが、それでも一行空けや章の切り替えなどの区切りとなる部分までは、視点をブレさせることはほぼありません。

本作は、浮雲のワトソン役・八十八の視点で綴られています。この引用部分の直前までも八十八の視点で進み、一行空けなどの区切りなしで引用部分につながっています。ですので、八十八の視点であるとして引用部分を読み進めると、

 近藤が、持っていた木刀を下ろした。
 ――終わった。
 そう思った刹那だった。

この部分で、「この『終わった』って思ったのってだれ?」と思うはずです。答えはもちろん八十八なんですが、近藤のモノローグであるようにも思えるんですよね。もしくは、この場面を客観的に見ていた「だれか」の感想とも思えます。つまり、だれが「終わった」と心で思ったのかが、いまいちはっきりしないんです。さらに続けて読むと、

 ――何だ? 何が起こった?
 見ると、達一郎の胸から、刀の切っ先が突き出ていた。
 何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう。
「現れやがったな!」
 浮雲が叫ぶ。

この部分でも、「『何だ? 何が起こった?』ってだれが思ってるの?」という疑問が湧いてきます。これももちろん八十八のモノローグですが、続けざまに「何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう」といきなり推量の文章が出てくるせいで、混乱するんですよね。これ、だれによる推量なのでしょう。たぶん八十八だとは思うのですが、そうであれば「八十八は、何者が背後から刀で貫いたのだろうと思った」などと述べるのが正しいところでしょう。しかし「だれが」推量しているかがあいまいなせいで、八十八の推量とは思えないばかりか、ものすごーく客観的な推量であるように思えるのです。

続いての「浮雲が叫ぶ」も、八十八が浮雲の声を聞いたものとして述べているのでしょうけど、こちらも客観的すぎるんです。「浮雲が叫んだ」と過去形にするか、「八十八の横で浮雲が叫ぶ」などの表現にすれば、「八十八が聞いたことなのね」とすんなり納得できるのですが。

では、この引用部分で何が起こっているかというと、八十八の視点として描きながらも、第三者視点(ぽいもの)が混じっているということです。この(ぽいもの)というのがポイントで、視点の混じりがあるとは言い切れないけど、ないとも言い切れない。非常に微妙なラインの技法を用いているのです。私が指摘した「終わった」などのモノローグや、「何者かに、背後から刀で貫かれたのだろう」という推量、「浮雲が叫ぶ」だって、八十八の視点だと言われれば、「そうっすかサーセン」としか返事のしようがありませんから。

こういった「視点の混在(ぽいもの)」は、避けようと思えば避けられるものですから、意識的か無意識かにかかわらず、何らかの意図のうえで用いているはずです。おそらくこれは、八十八の視点を読者の視点に切り替えるというか、八十八と読者の視点が重なるのを狙っているのだと思います。引用部分では人殺しが起こり、悪役ともいえる人物が現れているため、読者に恐怖や驚きを体験させなくてはなりません。そこであえて、八十八の視点によって彼の恐怖・驚きを示すのではなく、客観的な読者の視点に切り替えて、読者自身が「ギャー!」「うわっ!」と感じられるようにしているのだと思います。

つまり本作の「読んでいて映像が浮かびやすい」というのは、単純に目の前に映像が浮かぶような表現ではなく、作中の出来事を直接見ているかのように、読者に思わせる表現ゆえのことでしょう。体験型小説とでもいいましょうか。文章の内容が、読者の感情を動かすことに特化しているんですね。なので、本を読み慣れていない読者でも、スッと読めるというよりは「わかる」または「感じる」ことができる。万人に読まれるのは、そして部数が伸びるのは、こういう作品だなぁと、しみじみ思ってしまいました。

ただし、この「視点の混在(ぽいもの)」を新人賞への応募作品で用いると、あまりよい評価はもらえないような気がします。下読みや編集者、審査員の判断にもよるでしょうが、「視点、ブレてない?」と判断されかねませんから。実際、神永さんは新人賞デビューの作家さんではありません。だからこそ、こういった「ナシ寄りのアリ」の技法を躊躇なく使っているのかもしれませんしね。なのでこの技法は、たとえ優れているとしても、神永さんが用いているからこそ「アリ」なのであって、執筆初心者や新人賞応募者は真似しちゃダメ絶対ってことです。


発売日:2022年3月25日