時代小説読書記録帳

時代小説(おもに新刊)の感想を書いています。

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時代小説・歴史小説の感想を書いています。

取り上げるのは新刊の文庫本が中心ですが、ときどきはこれまで読んだ既刊についても書きます。

ネタバレはなるべく避けていますが、100%回避できてはいません。

あくまで私の基準で書いていますので、「私の読んだイメージと違う!」と思われたとしても、怒らず騒がずにブラウザを閉じ、窓を開けて空気を入れ替えましょう。気分がすっきりします。

何かございましたら、下記のアドレスまでお願いします。

yaplanning@gmail.com

坂井希久子『江戸彩り見立て帖 朱に交われば』(文春文庫)

江戸時代の相性のよいカップルを表す言葉として、「東男に京女」 というのがありますが、本作はその逆。「東女に京男」 の物語です。 しかもヒロインは呉服の色見立てにかけては天才肌なのに、 堅物のお彩。その相手となるのが、京出身の呉服屋のボンボンで、 いつもはフニャフニャしながらも、いざとなったら鋭くて、 ちょっとだけ陰のある右近。 このキャラクター設定と組み合わせを、 嫌いな人なんていないのではないでしょうか。

しかも、 作中には江戸時代の色彩についての知識が盛りだくさんで楽しいで すし、作者が何を書いてもうまい坂井希久子さんとくれば、 面白くないわけはありません。 そして人気が出ないはずがありません。というか、 実際にシリーズの第一作目には重版がかかってます。 そんな完全無欠の作品に、 私ごときが感想を言う必要もない気がするので、 ここらへんでおしまいにしたいのですが、 とりあえずは書いていこうと思います。

いきなりですが、「いい小説」って何でしょう? この問いには、さまざまな答えがあると思います。 そんな多数の答えの中の一つにあるのが、「感情を直接的に表現しないで、読者にしっかり伝える」です。「うれしい」「悲しい」といった感情をそのまま書くのではなく、 人物の表情やしぐさ、台詞、 情景描写などで表すということですね。

たとえば、「今日は空が青いのに、僕にはそうは見えなかった。僕の目に映るのは、くすんだ黒い空だ」みたいに書いてあったとします。これ、決して「目ェ悪いんじゃないの?」とか「眼科行けよ」みたいな話ではありません。見えている情景で感情を表しているんですね。この「僕」 の気持ちは、おそらく「悲しい」とか「寂しい」とか、 ネガティブな感情のはずです。美しいはずの青い空が、 あまりいい色とはいえないものに置き換わっているのですから、「僕」が良好な感情を抱いているとは思えない。つまり、「くすんだ」「黒い」という言葉に似た感情をもっている、 と考えられるということです。こういった間接的な感情表現が、 いい小説では必ず行われています。

「お彩はん、ここはわてが。 あんさんは奥でお昼を食べてきなはれ」
「でも、番頭さんが」
「あの人の言うことは、聞かんでよろし」
 自分の店の番頭なのに、ずいぶんな言い様だ。(p.154)

これはお彩と右京の会話の場面です。最後の右京の台詞である「あの人の言うことは、聞かんでよろし」からは、 右京が明らかに怒っているであろうことが読み取れます。「怒っている」という直接的な感情表現がないのに、です。では、 なぜ「怒っている」とわかるかといえば、地の文で「ずいぶんな言い様」と書かれているのはもちろんですが、 これまでの右京との物言いとは違う、「よろし」 という命令形の言い切りを使っているからでしょう。 いかにも上方の人らしいはんなりとした口調の右京が、 いきなりキツい言い切り表現を使うのですから、「こりゃ怒ってるね」と思わざるを得ないのです。

さて、そんな間接的な感情表現でいちばん重要というか、 うまくできたらかっこいいことこの上ないのが、「好き」 という気持ちの表現です。 夏目漱石が言ったとか言わないとか言われている「月が綺麗ですね」をはじめとして、「好き」 の間接表現については、 古今東西の作家たちが取り組んできています。そして本作でも、 見事な「好き」の間接表現が行われているのです。

「いやもう。格好よろしいわ、お彩はん」
 まるで発作だ。お彩はぽかんと突っ立ったまま、 笑い続ける右近を見上げた。
「よぉ、兄ちゃん。江戸の女はいいだろう?」
 いつの間にか、周りに見物の輪ができていた。 上方の男と江戸の女が喧嘩をはじめたと、 物見高い連中が足を止めたのだ。
「いやだ!」
 今さらと知りながら、お彩は着物の袖で顔を隠す。その頭上から、 やけに晴れやかな声が降ってきた。
「へぇ、お蔭さんで。わて、もう江戸から離れられやしまへんわ」 (p.221)

これは路上で、 お彩が右京に啖呵を切ってしまったあとの場面です。「てめぇ」 呼ばわりしたお彩に、右京は「格好よろしいわ」と笑っています。 そして最後に、「わて、もう江戸から離れられやしまへんわ」 と言っています。この一連の部分が、「好き」の代替表現です。 右京の言う「離れられやしまへん」のは、書かれているとおりであれば江戸なのでしょうが、 きっと「江戸の女」のことも指しているのでしょう。 そうとしか読み取れません。そして「江戸の女」とはだれかといえば……ということです。このように断言できるのは、野次馬の「 江戸の女はいいだろう?」という呼びかけのおかげですね。 ここから、右京の言う「江戸」が広義で「江戸の女」 までを指すものだと理解できるのです。

いやぁ、この部分の書き方はすごいですよ。 この部分を読むだけでも、本作を買う価値があります。 しかもこの部分を、本作の終盤に持ってきているので、 続きが読みたくなる仕掛けにもなっています。そして、 こういう叙述をサラッとできるのが、 プロ中のプロの作家さんなんですよね。さすがは坂井さん、 お見事でした。


発売日:2022年5月10日

吉森大祐『うかれ堂騒動記 恋のかわら版』(小学館文庫)

著者名に見覚えがあると思ったら、『幕末ダウンタウン』の作者さんじゃないですか! 数年前に小説現代長編新人賞を受賞された方ですよね? あのとき、石田衣良さんが講評で「こういうアイデアをこれから10個ぐらい考えろ。話はそれからだ」みたいなことを書いていて、「編集者っぽいことを石田さんが書いてる」と思った記憶があったんですよね。

そうか、あの作者さんも時代小説を書くのか……と思いましたが、よく考えたら『幕末ダウンタウン』だって時代小説ですものね。パロディ小説的ではありましたが、たしかに時代小説でした。濱田と松茂登に惑わされちゃいけない。

そして本作は、パロディもなければ、惑わされることも紛うこともない時代小説です。主人公は一穂という美人(自称)のおてんば娘で、訳あって叔父の市右衛門とともに長屋住まいをし、かわら版屋として働いています。その一穂が、幼なじみの同心・吉田の下で密偵的な働きをしながら、いろんな事件に巻き込まれていくのが、本作のあらすじです。全編にわたってドタバタ系のコメディとして描かれていますが、それってけっこうチャレンジングなことではないかと思うのです。なぜなら、コメディを主体にした作品で、傑作といえるものはかなり少ないからです。

コメディを全体の要素の一部として取り入れて、成功している作品はたくさんあります。コメディ濃度を全体の50%程度にした、「泣けて笑える」というトラジックコメディが代表的です。また、恋愛やサスペンスなどのほかの要素と組み合わせることで、スパイス的な役割を果たすこともあります。ラブコメなどがそうですね。コメディ要素を入れることで、恋愛のしんみりしそうな部分をカラッとさわやかにすることができます。除湿効果。このように異なる要素にコメディを混ぜる場合は、コメディ濃度は30%ほど、高くても40%ほどではないかと思います。

つまり、コメディ要素が50%ぐらいまでの作品なら、面白い作品として名前が挙がるものが多いのです。パッと思いつくのは、七尾与史の『ドS刑事』シリーズとか、万城目学の『鴨川ホルモー』とかでしょうか。筒井康隆の短編作品の多くも、SFにコメディを混ぜたものだと思います。本作も、人情ものにコメディを混ぜたものといえなくはないですが、コメディ濃度がかなり高いのです。強いて言えば、70%ぐらいでしょうか。

「水野様は、もう、今日、四度もあたしをカワイイとおっしゃいましたよね。あたし、数えていました」
「か、カワイイとな、うむ、確かに言った」
「五度目です」
「うう」
「ねえ、水野様。どのへんがカワイイですか? 顔? やはり、顔ですか?」
 一穂は目をきらきらと輝かせながらにじり寄る。
 その勢いに、水野は圧倒される。
「う、うむ……ええと」
 と考えた。
「うむ、そうだな。顔だ。顔がいい」
「顔のいったいどこですか? 目かな? 鼻? 口もいいでしょ?」
「うーんと、もちろん目もいい」
「うん、うん」
「鼻もカワイイぞ」
「やったぁ!」
「口は少し、大きいかなあ……」
「――なに?」
 ぎろり、と一穂に睨まれて、水野は肩をすくめ、
「あ、いや、その……。く、口もカワイイ」
 と下を向いた。(p.26-27)

これは第一話で、一穂が北町奉行所の与力・水野と話している場面です。町奉行の次に偉い与力に、一穂のような一介の町娘が好き勝手言いまくるという、完璧なコメディシーンです。本作では、こういった場面がかなり出てきます。その場面は個々別々には面白いのですが、面白さが足りないというか、面白さを感じにくくなっているような気がするのです。

コメディを構成する最大要素は、笑いです。笑いを引き起こすには、多くは落差を使います。シリアスな場面から笑いに持って行くと、落札があるために、ものすごく面白く感じるものです。吉本新喜劇でさえ、あれだけガッツリとコメディに取り組みながらも、借金とか身分違いの恋とかチンピラの脅しとか、シリアス要素をしっかり入れています。まぁ、そのチンピラの親分が池乃めだか師匠だったりするのですが。

しかし本作のように、作中のコメディ濃度が高く、笑いと対比される場面(シリアスだったり、泣ける要素だったり)が少ないと、全編にわたってコメディ要素がばら撒かれているので、落差が発生しにくいと思うのです。さらには、コメディ状態が恒常的になってしまい、先ほどの引用部分のような場面が来ても、読者は「爆笑」「クスッ」みたいな状態にはなりにくくなるのではないかな、と。それがコメディ濃度が高い作品に傑作が少ないことの理由でしょう。

ただし本作では、最終話においてはきちんとコメディがコメディとしての能力を発揮していました。とても面白かったです。それは、最終話で一穂と市右衛門ののっぴきならない事情が判明するという、比較的シリアス主体の話だからでしょう。深刻な事情の中で、コメディ要素が出てくるのですから、かなり面白い。だったら、第一話からこの「事情」をうまく匂わせれば、コメディ要素が活きた、もっと面白い作品になったかもしれません。

しかし、それをしなかったのは、作者さんが「俺はこの作品を、コメディ要素100%の、コメディ小説として書きたいんだ!」と考えられたからではないか、と思います。とにかくバカバカしくて、何の役にも立たず、教訓など一つも得られない。だけど、ひたすら腹から笑える――そんな作品を、作者さんは目指したかったんじゃないかなぁ、と。そうだとしたら、大賛成です。小説は、教材でもなければ、人生の指針になるものでもないのですから、ひたすら面白く、楽しく、くだらなく、切なく、何なら目一杯ダークでも、人の道から逸れるものでもOKだと私は思います。

そして、作者さんがそんな「100%コメディ もうやりきるしかないさ」という気持ちでいるのであれば、その路線にがっつりと進んでいただきたい。『幕末ダウンタウン』のように、ひたすらハチャメチャな世界を描いていただきたい。頭のネジを5本ぐらい抜いて、最高に自由で面白い世界を描いていただきたい。本作ではたぶん、ネジは2本程度しか抜かれていないと思いますのでね。


発売日:2022年5月6日

輪渡颯介『髪追い 古道具屋 皆塵堂』(講談社文庫)

作者さんの、小説家としての体力がすごい。本作を読んで、そう唸りました。すべてのシーンがみっちりと書かれています。

 茂蔵の兄貴分、棒手振りの魚屋の巳之助だった。年は多分、茂蔵より一つか二つ上なだけだが、やけに貫禄がある。この男の場合、何歳だとかは考えない方がよい。地獄の鬼の年齢を気にしないのと同じだ。
(中略)
 その後で巳之助がなにをするかというと、猫を眺めるためにあちこちをふらふらと歩くのである。この男は顔に似合わず、無類の猫好きなのだ。(p.24-25)

これは、巳之助という登場人物の紹介の部分です。あえて台詞を省いて引用していますが、それでも巳之助の人となりがきちんとわかります。ぎっちり&みっちりと、その人の特徴を描いているからですね。文章量が多いというわけではなく、読者が人物を想像しやすいように、文章で精一杯伝えているという感じです。

 鮪助はこの辺りの親分猫である。貫禄の塊だが、つまりは無愛想ということである。この鮪助が少しでも猫らしくなるのは、猫が苦手なのにやたら猫に好かれるという、あの太一郎を相手にする時だけだ。(p.87)

これは鮪助という猫の紹介部分です。こちらも短い文章の中に、鮪助の魅力および迫力がぎゅっと詰まっています。簡単にいうと、文章に「逃げ」がないのです。「ここはサッと書いておけばいいや」みたいな雰囲気がないのです。

「それって、商業小説ではふつうのことじゃないの?」と思われるかもしれませんが、時代小説に限らず、小説全般において、「この場面は端折ろう」「ここは簡単に書いてもいいよね」みたいな「逃げ」を感じる描写に出会うことは少なくありません。地の文での描写がほとんどなかったり、台詞の羅列と改行をくり返しているせいで多くのページの下半分に文字がなく、メモ用紙に使えそうな作品だってあります。けっこうあります。

本作では、そういった「逃げ」はありません。文章ででき得る限りの描写をして、読者に面白さを伝えようとしています。そのために書き切る体力がすごい。根性がすごい。こういった小説の執筆における体力&根性がはっきりとわかる作家さんは、メフィスト賞を受賞した方に多い気がします。本作の作者さんである輪渡颯介さんもそうですし、京極夏彦さんや辻村深月さんもそうですね。どんな作品においても、「よく書くなぁ」と言いたくなるぐらい、重量級の執筆をされています。

……と、文章の濃厚さに気を取られてしまいましたが、簡単に本作を紹介します。本作は、古道具屋に集う人たちが、あれやこれやの騒動に巻き込まれる「古道具屋 皆塵堂」シリーズの9作目です。あらすじとしては、小間物屋で働く茂蔵が、酔った勢いで、祠に封印されていた箱を開け、その中にあった長い髪が飛び出し、さまざまな騒ぎを巻き起こす、といったところでしょうか。これまでのシリーズ作同様、落語の噺のようなコミカルな描写で物語が進んでいきます。

本作というか本シリーズは、比較的登場人物が多いのが特徴です。とりあえず作品ごとの主人公はいるのですが、それ以外の人々にもきちんとスポットライトを当てています。これも「逃げ」がない証拠ですね。「こいつはどうせ脇役だから、サラッと書けばいいや」みたいな雰囲気がない。どの人物も、どういう性格で、どういう言動をとり、どういう面白さのある人間なのかを十分に練り上げ、文章で表現しています。

 太一郎と峰吉は落ち着いている。特に峰吉は、この座敷の床の間にある値の張りそうな壺や掛け軸、置物などを、口元に薄気味悪い笑みを浮かべながら眺めている。
 そのうち涎を垂らすんじゃないかな、と思っていると、その峰吉がすっと居住まいをただした。笑みから薄気味悪さが消え、愛嬌に溢れた可愛らしいものに替わる。皆塵堂で客を相手にする時に顔だ。
 少しして、襖の外から足音が聞こえてきた。茂蔵たちも背筋を伸ばす。さすが峰吉は、他の者よりはるかに耳が利く、と茂蔵は改めて舌を巻いた。(p.151-152)

これは戸倉屋という呉服店の座敷で、茂蔵と仲間たちが待っている場面です。ここを読む限り、失礼を承知で言うと、一文一文が洗練されているわけではないんですよね。ちょっと冗長かな、とさえ思えます。しかし、峰吉という人物がどういう者なのかを伝えようとする意志がありますし、峰吉の裏表がある感じや、耳の良さといった特技もはっきりとわかります。文章が強いといいましょうか、一文の色が濃いといいましょうか、必要最小限ではなく、必要最大限の表現が続きます。ほんと、よくここまで書けるなぁ、と思うのと同時に、小説にしっかり向き合った作者さんの作品というのは、こういうものだよなぁ、とも思いました。

漫画『のだめカンタービレ』では、主人公ののだめに対し、指導者のシュトレーゼマンが「音楽に正面から向き合わないと、心から音楽を楽しめまセンよ」と言っています。これは小説にも言えることではないでしょうか。小説に正面から向き合っている人は、どんなに大変でも楽しく小説を書いているし、読者をも楽しませることができる。そして、「小説と正面から向き合う」というのは、逃げないことです。一文ごとにこだわりをもち、どんな細部もごまかさない。「読みやすいほうが読者ウケがいいから」「どうせだれも読まない部分だから」などと、叙述を省くための言い訳をしない。そんなド根性が見える本作のような作品が好きだなーと、昭和のド根性おばさんである私は思うのです。


発売日:2022年4月15日

鷹井伶『おとめ長屋 女やもめに花が咲く』(角川文庫)

長屋ものでシスターフッドもの。そして人情要素と謎解き要素もプラス。そんな最近の時代小説の「トロ」の部分を、ぎゅっと詰め合わせたかのような作品です。「女性だけの長屋の物語」というテーマ(題材)も新鮮でいいですよね。これは作者さんが、「これまでにないテーマで書きたい」と考えられたものではないでしょうか。そして、長屋の店子ひとりひとりを紹介するように、いくつかの出来事が起こる長屋ものの定番ともいえるストーリーは、多くの読者さんが好むものではないかと思います。とくに第三話の、加恵がつらい人生の中に光を見つけていく話は、とてもよかったです。

ですが、主人公・千春の設定には、引っかかりを覚えてしまいました。

「ほら、美味しそうだろ。あんたの好物の芋煮、作ったんだよ。すぐご飯にするだろ? それとも湯屋に行ってくるかい?」
 そると、仙吉は横を向いたまま、呟いた。
「なんで、おめぇはいつもそうなんだ」
「いつもって?」
「いつもだよ」
 仙吉はやれやれとばかりに、ふーっと息を吐いてから、千春に目を向けた。
「おめぇは俺のおっかさんか? え? そうなのか?」
「おかしな人だね。何言ってんだよ。そんなわけないだろ」
 笑い飛ばそうとした千春に仙吉は「だ、か、ら」と、さらに苛立たしそうな声を上げた。
「母親づらすんなって、言ってんだ! 出てけ、出てってくれよ!」
「えっ……」(p.8-9)

あらすじや巻頭の人物紹介によると、千春は「惚れた男に尽くせば尽くすほど嫌われてしまう」タイプだそうです。この引用部分でも、そのキャラクター設定がなんとなくわかりますね。ならば、その性格で損をしながら物語が進むのかといえば、そうではありません。この冒頭の部分以外では、千春はほとんど「尽くしまくる」モードにはなりません。長屋の人たちの事情に首を突っ込もうとする場面はところどころにありますが、それは「尽くしまくる」というよりは、「ちょっと気になる」というレベルです。

 ふ~んと祥次郎は考え込む顔になった。
「ま、あれかな。母親ってのはただでさえ面倒くさいもんだから。あんまり世話を焼くのもよくねぇと思ってるんじゃねぇか」
「そっか……」
 千晴は前に仙吉から「母親面するな」と言われたときのことを思い出して、胸がちくっとなった。
「ん? どうかしたかい」
 祥次郎が千春の目を覗き込んだ。
「ううん……あのさ、祥さんも世話を焼かれるのは嫌い?」
「え? 俺?」
「うん」
 真剣な表情の千春を見て、祥次郎がふっと笑顔を浮かべた。
「あのさ、ちーちゃんに言ってんじゃねぇよ。俺はちーちゃんになら、世話を焼かれてぇぐれぇだ」(p.199-200)

これは最終話である第四話で、千春が好きになった祥次郎と話しているところです。最終話になって、やっと千春の「尽くしまくる」性分についての話が出てきます。だからといって、千春は「尽くしまくる」モードになるわけではありません。作中では、尽くしまくるどころか、押しに弱いタイプではないかと思える部分が多いです。ガツガツと世話を焼きまくって「うぜぇ!」と言われるぐらいでないと、「尽くしまくる」設定の意味がなくなってしまうと思います。

また、ここまでの二つの引用部分からもわかるとおり、本作の会話では「えっ……」「うん」「はい」のようなあいづちの台詞や、「それは○○だ」「えっ、○○って……」のような、鸚鵡返しの台詞が非常に多いです。こういった台詞は、会話のリズムをとるために書かれるものです。つまり、こういった台詞がなくても文脈上は問題ないことが多いので、多用されると「そんな台詞に大切な一行を使うの?」と思ってしまいます。

「この金だが、お前さんももうわかっただろうが、シズが持ってきた。でも責めないでやって欲しい。(後略)」
「…………」
 千春は答えに迷った。万引きをしたのはシズなのか。それを知らんぷりして責めるなとはどういうことなのだろう。
「シズは、お前さんも知ってのように生真面目な人だ。たいていのことはあの人に任せておけば回る。安心していていい。それは間違いない」
「はい」
「けど、頑張りが過ぎるんだろうね、時々この癖が出る」
「癖……」
「ああ、癖さ。この癖のせいで可哀想にお店勤めが続かない。直そうともしてるけど、なかなか上手くいかなくてね。だから、どうにも我慢ができないときには、うちのを取りなと言ってある」
「そんな……」(p.89-90)

この引用部分は、長屋の大家・トメから、千春が話を聞いている場面です。ここにある「…………」「はい」「癖……」「そんな……」は、あいづちもしくは鸚鵡返しの台詞です。「…………」に至っては、おそらく言葉に詰まっているのを表しているのでしょうが、直後に「千春は答えに迷った」とちゃんと説明しているのですから、わざわざ入れる必要はないでしょう。そして、「はい」などのあいづちをそのまま入れるぐらいなら、話を聞いている千春の様子や表情などの描写を地の文として入れるべきなんじゃないかなぁ、と。

私がこういったことを書くと「『そんな……』とかは、戸惑いを表したかっただけでしょ?」などと言われてしまうのですが、それだったら「○○はつっかえながら言った」とか「○○の目が泳いだ」とか、態度や様子でいくらでも表現できると思います。そして、そういった叙述で物語をつくっていくのが、文章だけですべてを表現する、小説でしかできないことだと思います。せっかく小説で面白いストーリーを書こうとしていらっしゃるなら、小説にしかできない表現を読みたいですし、そういう作品にこそお金を払いたいです。

さらに本作では、こういったあいづち&鸚鵡返しの台詞は、主人公である千春のものであることが多いのです。主人公なのですから、しかも「尽くしまくる」設定なのですから、人の言うことに頷いたり鸚鵡返しをするだけでなく、自分勝手にだれかに尽くすような台詞を言うようにすれば、千春が主人公として引き立っていたのになぁ、と思わずにはいられません。だって現状では、千春の「尽くしまくる」という設定は、なくても問題ないものになっていますから。

それにしても、わざわざ巻頭の人物紹介で説明されているほどの主人公の設定が、どうして作中で強調されていないんでしょうね。まさか後付けの設定というわけでもないと思うのですが。

ただ気になるのが、「尽くしまくる」設定にかかわる部分の表記のブレです。冒頭では「母親づら」とあるのに、最終話では「母親面」と漢字になっています。校正で表記統一しなかったの? とか、それとも最終話は一般論としての「母親面」として漢字にしたってこと? とか、「尽くしまくる」設定を意識させるために、校正後に後付けで「母親面」のエピソードを最終話に入れた? とか、いろいろ勘繰りたくなりますが、とにかく主人公の設定は大切だよ! 最後まで設定ブレさせんなよ! ってことです。


発売日:2022年4月21日

風野真知雄『同心 亀無剣之介 殺される町』(コスミック文庫)

本作の作者である風野真知雄さんといえば、数多くどころか数多多多多多くの時代小説を書かれている方です。筆が速いのもそうですが、これだけ書かれていてもネタが尽きないところがすごい。まさに職人技。

ただ、「ふだんはうだつが上がらない感じだけど、いざとなったらすごい」といったタイプの主人公ばかり書かれているとか、「このネタって、別の風野作品で読んだような……」みたいなことは起こりがちではあります。人気があって量産タイプの作家さんには避けがたいことではありますし、そういった定番ネタやネタかぶりが許されるのも、人気のあるベテラン作家さんの特権といえると思います。

さて、本作の主人公の同心・亀無剣之介も、まさに「風野流」ともいえるタイプです。頼りなさそうに見えて頼れる人です。ドラマ『必殺仕事人』の主人公・中村主水みたいなタイプですね。

「いいよなあ、昼の湯は」
 亀無は羨ましそうに言った。ほんとに昼間入る風呂くらい気持ちのいいものはない・亀無も大好きだが、この数か月、そんなことはしたことがない。
「ほんとにひさしぶりなんですよ。追いかけていた辻斬りは、亀無さんが捕まえたというので、ホッとしちゃいまして」
「うん。ホッとしちゃったところを悪いんだけどさ。もしかしたら、昨日の辻斬りの下手人は別にいるかも」
「え」
 早瀬は目をぱちくりさせた。(p.193-194)

この引用部分の様子からも、亀無の飄々とした雰囲気が伝わります。そして、風野さんの作品では欠かせない、思わずクスッとなる表現も入ります。

「そういえば剣之介さん、昔もこうやって鳩捕まえてたよね」
 と、志保が言った。
「そうだっけ?」
「うん。捕まえて食べるんだって息巻いていた。でも、結局、捕まえられなかったけど」
 と、志保は笑った。
 だが、二十数年の歳月は、ちゃんと亀無を成長させている。今度は、さほど苦労せず、鳩を捕まえた。(p.69)

 引き目、鉤鼻、おちょぼ口。ああいう顔は、絵だからあるもので、実際にはないと思っていた。ところが、絵そのまんまという顔なのである。
 鼻の穴はあるのかと、じっと見つめると、ちゃんとふたつある。(p.140)

このように、作者さん定番といいますか、お約束といえるような表現やネタを入れられるのも、ベテラン作家さんならではだと思います。新人および駆け出しの作家さんがやろうとしても、編集者に止められるか、やったところでだれにも気づかれない可能性がありますから。

また、本作に収められた短編すべてで、最初は犯人の視点で殺人が行われた場面を描き、そのあとで亀無の視点で事件を解決していく展開になっています。これは、ドラマ『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』などで見られる展開ですね。完全犯罪を目論む犯人を追い詰めていく手法で、ありがちといえばありがちな展開です。新人賞への応募者や、新人作家さんが取り入れたら「平凡」「無難」「そういうの五万回は読んだ」などと言われてしまうとは思います。ですので、こういう「ありがち」「定番」「古典的」な展開を使えるのも、ベテランの売れっ子作家さんの特権なのかもしれません。

本作は、そんな「ありがち」な展開ではありますが、風野さんのさまざまな技が冴えているからこそ、最後まで面白く読める作品になっています。技の中でも際立っているのは、キャラクターの動かし方でしょう。

エンタメ作品では、ストーリーの面白さよりも、キャラクター設定の面白さに重点が置かれがちです。とくに最近では、その傾向が強くなっていると思います。それはまったく悪いことではないのですが、キャラクター設定「だけ」が面白くて、キャラクターの言動がありきたりだったり、ストーリー展開に都合のいい行動しかとらないというパターンが多く見受けられます。

たとえば、突然超能力を手に入れた設定のキャラクターであれば、「突然超能力を手に入れた」人間としての言動を、キャラクターにとらせるべきです。それは、手に入れた能力への戸惑いかもしれませんし、能力を手に入れてはしゃぐ様子かもしれません。しかし、キャラクターの設定だけに寄りかかってしまうと、そういった描写はなく、いきなり世界を救う方向に進んでいくといった、ストーリーに合わせるだけの行動の描写だけがされてしまいます。

本作も少々そういう部分はあるのですが、主人公の亀無ののらりくらりな性格が、言動にうまく現れています。何かの判断をしなければならないときでも、「亀無なら、そういう判断をするだろうな」と納得できる方向に進み、そっちがたまたまストーリーに都合がいい方向だった、みたいに思えるのです。

登場人物の個性というのは、作者が事前に用意した設定シートに存在するのではなく、作中の言動のひとつひとつに出るものです。ただ散歩をするだけでも、くしゃみをするだけでも、それぞれに個性を出していくのがキャラクター設定の面白さです。そして、本作のようにベテランの作家さんであれば、キャラクターの設定を読者が自然と理解できるように書くことができるんだなぁと思いました。

ただ、こういったキャラクターの動かし方も、定番中の定番といえるキャラクターを出せるからこそ、できるという面もあると思うんですよね。ありがちなキャラクターであるため、設定しやすく動かしやすいうえに、読者もキャラクターの様子を想像しやすいといいましょうか。しかし、どんなにベテランで人気のある作者さんだとしても、はじめから定番のキャラクターを出していたわけではないでしょう。その作者さんの作品を愛してくれるファンがたくさんいるからこそ、定番を書くことが許されているのですから、多くのファンをつかむまでの苦労や努力に、敬意を表したくなるのです。

そして、新人もしくは駆け出しの作家さんは、ベテラン作家さんが書けないようなキャラクターを描き、それが定番となるようにがんばってほしい、と願わずにはいられません。


発売日:2022年4月25日

佐々木禎子『口福の祝い笹寿司 はるの味だより』(ハルキ文庫)

4月にハルキ文庫から、「女性が飯屋で働く」という設定の時代小説が3冊刊行されました。この説明をするのも3回目です。つまり今回のこのエントリーで、3冊すべてを説明したことになります。似た内容のものが同時発売となれば、否応にでも比べたくなりますし、売れ線である「女性が飯屋で働く」設定のほかの作品と比べたくなるのは仕方ないところではあります。……と、書くのも3回目です。簡単にいえば、「どうしても類似作品と比べることになるよ。絶対評価は難しいよ。ごめんね」ってことです。

本作およびこのシリーズの類似作品との差異は、主人公の置かれている立場でしょう。多くの「女性が飯屋で働く」という設定の時代小説では、主人公の女性が自分なりの料理で飯屋を切り盛りし、「おいしい」と言われてほっこりしたり、ある出来事に決着が訪れたりすることが多いものです。しかし、本作はちょっと異なります。主人公のはるは、隠居の治兵衛に飯屋を任されるという、いわゆる「雇われ店主」のような役割で、料理の修行をしたとか、親が料理人だとか、料理のプロ(もしくはセミプロ)としての経験があるわけではありません。

はるは、薬売りだった父親がつくってくれた料理を再現したりしていますが、はるが作った料理は、けっこうな確率でダメ出しや拒否をされたりもします。

きんぴらごぼうも納豆汁も他とは違う作り方をしているのに美味しいからってみんなが食べてくれる。でも鶏湯漬けは時期を見て出したほうがいいって言われる。試しに食べてみようとすら、してもらえなかった」
 独白を漏らすはるの肩がしゅんとして落ちる。(p.68)

これは店の持ち主である治兵衛のことを、独白している場面です。治兵衛が商売に関して厳しい人間だというのもありますが、なかなかメニューにOKが出ないのです。そうなると、はるが一生懸命がんばって、治兵衛もうなるようなメニューを作り出す……みたいなカタルシスを求めたくなりますが、本作では大きなカタルシスはやってきません。それどころか、はるのメンタルが揺れるにともなって料理の味が変わったりと、飯屋というよりは家庭で料理をしているような部分もあります。つまり本作は、カタルシスをカツンと味わう物語ではないということでしょう。

「じゃあ、普通の磯辺焼きにしましょうか。それとも、きなこ餅がいいかしら。餡子は作ってないの、ごめんね」
「きなこがいいっ」
 勢いよくそう言われ、はるは自分が使っていた七輪の網に餅を載せた。一個、二個と置いたところで、弥助ははるを窺うようにして見つめているので、さらにもうひとつ餅を増やす。それでもまだ見ているから、またひとつ。載せるたびに弥助の笑顔が大きく広がっていくので、もっと餅を増やしたくなったが、他にも食べて欲しいものがあるから餅だけで腹いっぱいにさせてはならないのだ。(p.89)

これは、はるが弥助という子どもに餅を焼いている場面です。弥吉の顔を見ながら、網にのせる餅の個数を増やしているところに、はるの性根が現れている気がします。人の様子を見たうえで、行動をしています。これは人の心を読むのに長けているともいえますが、「自分は何をしたいのか」が明確ではないという証拠でもあります。そういった登場人物の性格を、こうして行動で示してくれると、まさに小説という感じでうれしくなります。

「あんたがしたいようにして、いいんだよ。あんたの幸せは、あんたが決めていいんだ。捜しにいくのも、いかないのも――戻ってくるのも、来ないのも」
 はるさん、と治兵衛が教え諭す言い方で続ける。
「あんたは手を動かしてなんぼだ。真面目に働いてなんぼだよ。まずは、あたしの気持ちに届くような旨い笹寿司を作ってみなさい。作っているうちに、あんたの腹も決まるだろう。自分がこの後どうしたいのか。あたしたちはそれを見届ける。だから、あんたは好きにしな」(p.195-196)

そして、厳しくもやさしくはるを見守る治兵衛は、彼女の性格を見抜いていて、「あんたが決めていいんだ」と告げています。そのうえ、そう言っても、はるがなかなか決められないであろうことを見越して、まずは人の気持ちを読む能力を活かして料理をつくりながら、自分の心を決めろと言っています。このあたりのロジックは、年配の人だから言えるものだと納得がいきます。そしてそれは、作者さんがキャラクターをちゃんとつくり上げているからこそ、読者も納得できる話になっているのでしょう。

……とは思いますが、そんなロジックが、ちょっとわざとらしいかな、と思える面もあります。あまりにも治兵衛が、はるの気持ちを見越し過ぎているんですよね。悩んでいることについて、はるはほとんど何のアクションも取っていないにもかかわらず、です。まぁエンタメ作品なので、そういった都合のよさはアリといえばアリなんですが。

そして最後に、はるは兄の行方の手がかりをつかみ、その後の行動について決断をするのですが、その理由が明確でなかったように思います。

 誰にでも思い出の味がある。
 大切にしたいものがある。(p.237)

これは決断の場面で、はるが地蔵に話しかける台詞の合間に挟まった地の文です。この部分があるあたりを、「で、決断の理由は何?」と思って何度か読んだのですが、「これ!」と思える理由がどうしても見つからないのです。しかもこの引用部分が挟まっているせいで、かえって「だから理由は何よ!」と思ったほどです。

いや、なんとなく理由はわかるんです。思い出の味や大切にしたいものを、はるは守りたいし、いっしょに大切にしていきたいということでしょう。でも、そのはっきりとした意志が見えないのです。そういうフワッとしたキャラクター設定なのかもしれませんが、とりあえずここは本作のエンディングなのですから、人の気持ちを読むのに長けたはるの性格ゆえに、だれかのために料理をつくるよろこびを生み出した……みたいな、だれにでもわかる明確な理由を示してほしかったです。


発売日:2022年4月15日